今日からマのつく自由業! 喬林知 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)超《ちょう》カッコいい |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)青葉|茂《しげ》る五月 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)人間もどき[#「もどき」に傍点] -------------------------------------------------------  あのねえ、ゆーちゃん。  ゆーちゃんの名前はねえ、ママがボストンの街角でいやーっどうしよう今にも生まれちゃううーって困ってたときに、親切にもタクシー相乗りさせてくれた超《ちょう》カッコいいフェンシング選手が、ママを慰《なぐさ》めようと「夏を乗り切って強い子に育つから、七月生まれは祝福される。僕《ぼく》の育った故郷では、七月はユーリというんですよ」って、あまりにもさわやかにニコって笑ってくれたから、ママが思わずつけちゃったのよ。だからゆーちゃんがいつもぶつぶついってるみたいに、利率がどうとか利回りがいいとか、パパが銀行やさんだからって利子とか利息とかのことばっかり考えててついた名前じゃないのよ決して!  ね、ゆーちゃん? 七月生まれだからユーリ。ねっほら可愛《かわい》いでしょー? ママの愛を感じるでしょ? 七月生まれでユーリ、素敵《すてき》よねえ、ちょっとどっかの少女マンガにでも出てきそうな美しさじゃなぁい? ユーリ。ああすてき、キラキラーって感じ。 [#改ページ]           1  だったらどうしてこんな漢字をあてた!?  中学時代からの宿敵であるヤンキーと、二対一という「不利」な格闘《かくとう》を続けながら、おれは聞き慣れた悪態を受け流す。 「なんとか言えよ渋谷《しぶや》有利《ゆーり》!」 「じゃあ原宿《はらじゅく》は不利なのかよ」  その決まり文句は五万回は聞いた。ちなみに生まれて十五年で。  そう、おれの名前は渋谷有利。裕里でも優梨でも悠璃でもなく渋谷「有利」。五歳上の兄の名前は渋谷勝利。勝利と書いてショーリと読む、ちょっとかっこつけてカツトシとかではなく。  青葉|茂《しげ》る五月、入学したての県立校からチャリをとばして帰宅|途中《とちゅう》だった。  今までは憧《あこが》れのあの人めざして中学野球部員やってたけど、高校からはもう一人の憧れの人めざして、剣道《けんどう》部員になろうかななんて喋《しゃべ》りながら、できたばかりのチャリ友と別れたのが五分前。機嫌《きげん》よくペダルを踏《ふ》んでいたおれは、自宅近くの静かな公園で、ただならぬ光景に出くわしてしまったのだ。  集金。  と呼ぶのは実行している加害者たちだけで、やっていることは昔からあるカツアゲだ。よりによって今日は加害者と被害者《ひがいしゃ》、合わせて三人ともオナチュー(同じ中学?)だった連中で、トイレの裏の壁《かべ》に追い詰められている眼鏡《めがね》くんは、中二中三とクラスが一緒《いっしょ》の村田《むらた》健《けん》だ。  いーじゃんこっちはチャリなんだから、気がつかなかったことにすれば。さーっと通り過ぎちゃえば、おれが誰《だれ》かなんて村田には判《わか》んないよ。だって別に友達ってわけでもなかったし、口きいたこともほとんどない。そうやって正義の味方なんか気取ってみたってさ、誰もこっちに期待も感謝もしやしないんだし………………ああ………………。  おれはゆっくりと自転車を止めた。  あーあ、だめだ……村田健と、目が合っちゃった。 「……お前等そこで何やってんのぉ? もしかして集団で違法行為《いほうこうい》とかはたらいてる?」  こうして、おれ、渋谷有利はヤンキー二人を相手にすることになり、推定五万回目の「じゃあ原宿は不利なんかよ!?」を聞かされることとなった。もって生まれた小市民的正義感のおかげで、カツアゲは犯罪だし、二対一は不公平だろという倫理《りんり》感のおかげで。 「オメーは勘違《かんちが》いしたかもしんねーけど、オレタチは単に『集金』してるとこだったの。あいつのオサイフの中の何枚かを、ゴーホーテキに集金してたんだぜ?」  それがどこの国の法律で合法なのかを、世界地図広げて説明してくれ。  紺《こん》とグレーの制服で、そろいの金髪《きんぱつ》にカラーコンタクトという無国籍風《むこくせきふう》高校生の二人は、おれの腹に蹴《け》りを入れると、ザラつくモルタルの壁に押《お》しつけた。 「なのにホラ、オメーが横から余計なこと言いやがるから、カモがダッシュで逃《に》げちったじゃんよ。ええ? 銀行屋さんのムスコなんだから、お客がどんなに大事かよーくわかってるはずじゃねぇのか!?」  本当だ。いや、なんということだ! 助けてやろうとした村田健は、こちらに背を向けて一目散に逃げている。とにかく我《わ》が身がかわいいってことか。おれは加勢を求めて周囲を見回したが、午後四時の公園には、小学生の姿ばかりだ。 「だいたいどーしてお前があいつを助けに来ンだよ。オメーらどっかでトモダチだったぁ? それとも人知れずラブラブだったんか」 「るせーな! 健て名前が気に入りなんだよ、勤と健は好きな名前ランキング上位なんだよ」  密《ひそ》かに敬愛するココロの師匠《ししょう》の名前が「勤」、一番好きな時代劇俳優が「松平健《まつだいらけん》」。 「ああ? 好きな名前ェ? 渋谷有利原宿不利がぁ!?」  ゲで始まる笑い声をたてる彼等に、なんとか一矢《いっし》報《むく》いようと、拳《こぶし》やら膝蹴《ひざげ》りやらを繰《く》り出していると、ヤンキーAはおれの髪《かみ》をつかみ、薄暗《うすぐら》いトイレに引っ張りこんだ。 「おい待て……テメ……っ、こっち御婦人《ごふじん》用って、マークちゃんとついてたじゃねーか!」 「そうだっけか? ふーん、ま、いいじゃん。個室が多い方が、プライバシー重視でさっ」 「そうそう、個室でしょやっぱ。ヒミツはヒミツにしときたいしィ」  調子を合わせたヤンキーBが、もぎ取ったデイパックから財布を探しだす。青いストラップが切れて携帯《けいたい》が転がり、壁に当たって着信音が鳴りだした。 「……なんだこの着メロ、オマエ聞いたときある?」 「いや。あーなんだっけなこれ、いつかなんか聞いた気ィすんな、ああ思い出せねぇ、確かあれだろ、テレビ。っつーか時代劇?」 「ンだそれ、いまどき水戸《みと》黄門《こうもん》以外の時代劇、着メロにするヤツいる? しかもあのストラップ、プロ野球かなんかのじゃねえ? 信じらんねーや渋谷有利、どーなってんの渋谷有利」 「うッるせーなっ! お前等に野球の良さがわかってたまるか! あっコラてめ……ッ」  ヤンキーBが紙幣《しへい》を引っぱり出す。漱石《そうせき》先生のワンペアだ。 「なーにーこーれー!? うっそ、お前ホントに銀行屋の息子《むすこ》!? てゆーか親父《おやじ》が貸し渋《しぶ》ってんだからぁ、普通《ふつう》もっと持ってると思うじゃん。カシシブリーのシブヤちゃん」 「親の職業はかんけーねーだろッ」  教えてやろうとも思わなかったが、所持金の大半は五百円玉だ。つり銭ではどんどんくれるのだけれど、自販機《じはんき》ではほとんど使えなくて、あっという間に貯《た》まってゆく。 「あーあ、せっかく村田の代わりに銀行屋が立て替《か》えてくれると思ったのに、支払《しはら》い限度額がたった青札二枚じゃよーお。せめて二万だよな、二万」  髪を掴《つか》む力が急に強まった。貸し切り状態の女子トイレは、水色の扉《とびら》が三つある。その真ん中に引きずり込まれ、背中を強《したた》かに蹴られて膝をつく。公園のトイレらしからぬ、有名メーカーの洋式便器が目の前に。 「おいまさかお前等……十年前の不良じゃないんだから……」 「県立|合格《うか》ったわりにゃアタマ働かねーみたいだからぁ、今後のサンコーのために教えといてやるけどーぉ?」  まさか便器に顔を突《つ》っこんだりはしないだろうな。いくらこいつらが中学ヤンキーだったとしても、西暦二〇〇〇年代にもなって、そんなレトロなリンチ方法を!? 「オレ等のジャマすっと、殺すぞ? 次はマジで」  恐《おそ》れていたとおり、敵はおれの頭を洋式便器に押しつけた。どうやら時代はいま、レトロブームらしかった。  首のつけ根で突っ張ってはみたが、十秒くらいで覚悟《かくご》を決める。  洋式便器がなんだってんだ! ちょっと変わった洗面器だと思えば機能は同じだ。押しつけられた顎《あご》の方から水が溢《あふ》れだす。反射的に顔を上げようとするが、後頭部への力は一向にゆるまない。おれは諦《あきら》めて息を詰《つ》め身を硬《かた》くする。  トイレが近代化されてからは、水洗便所に流された奴《やつ》はいない。そんなことになったらギネスブックに載《の》ってしまう。だからつまり、ほんの数十秒間、目をつぶって息を止めてりゃ、いくらぐいぐい押し込まれても、頭の先から引っ張られても……あれ?  ヤンキーAだかBだかの手は、相変わらず上から押さえ付けている。だがそれとは別に、何かおれを吸い込もうというような強い力が、洋式トイレの、黒い穴の中央から!  嘘《うそ》だろ!? ブランドトイレタリーに、こんな隠《かく》されたパワーがあったなんて! 強力|掃除機《そうじき》なみの、最終|奥義《おうぎ》があったなんて! もうどうやっても抗《あらが》い切れなくなり、頭から肩《かた》から腰《こし》から痛いほど吸い込まれていきながら、おれ渋谷有利は悲鳴とともに考えた。  もしかして、史上初!?  史上初、水洗トイレに流された男ぉーっ!?  ねえパパぁ。  なんだいユーリ?  どうしてパパはディズニーランドにくると「すたーつあーず」ばっかりのせてくれんの?  なんだ、ユーリはスターツアーズきらいか?  きらいじゃないよ、だいすきだよ! けどもう「ぱいろっと」の「どろいど」のいうことぜんぶおぼえちゃうくらい、なんどものったよー?  すごいなユーリは! 操縦士のドロイドの台詞《せりふ》、全部覚えちゃったのか。それじゃあユーリ、それが合ってるかどうか確かめるために、もう一回スターツアズ乗ろう! いつかお前が大きくなったときに、絶対これが役に立つから。  役に立ちましたとも!  ぼんやりと戻《もど》り始めた視界にしがみつきながら、おれは久しぶりに父親に感謝した。まさか十年以上前に、息子が水洗便所に流される未来を予測したわけではなかろうが、それでもあの東京ディズニーランド・スターツアーズ十連発は、確かにこうして役に立った。  渦巻《うずま》く水流に吸い込まれた後は、子供の頃《ころ》くりかえし見たあの光景そのままだったからだ。ドロイドの叫《さけ》び声、そしてワープ。光のつぶだった星々が尾《お》を引き線になり伸《の》ばされ歪《ゆが》み縮んでまた元どおりの星になる。自分の身体《からだ》も伸ばされ歪み縮んでまた……。  なーんてね。  まさか本当にトイレに流されるわけないじゃん。しかも身体も適当に成長した、平均的体格の高校一年生が。  おれは手も足も思い切り伸ばして、埃《ほこり》っぽい地面に大の字になっていた。舗装《ほそう》されていない道路なんて久しぶりだ。上にあるのはただ、ただ青い空。大気|汚染《おせん》とかオゾン層の破壊《はかい》とかとは縁《えん》のないような、澄《す》んだ空気のクリアな青空。顔を傾《かたむ》けると、道の両脇《りょうわき》には緑が見える。左手は木々が茂《しげ》る林で、右手は斜面《しゃめん》に広がる草地と民家だ。家はどうやら石造りで、遠くにぼんやりと動物が見える。山羊《やぎ》か……羊かな。  あの連中のことだから、便器に顔を突っこんだまま動かなくなっちゃったおれに慌《あわ》てて、すぐには発見されないような場所まで引きずってきてから捨てたのだろう。  とはいえ、ここどこ? まるで現代日本ではないような風景に、身体を起こしながら呟《つぶや》いた。 「……アルプス?」  の少女ハイジ? にしては、交通手段が思いつかない。  じっとりと湿《しめ》ったままの学ランが重くて気持ち悪い。よくよく考えるとこの水分は、おそらくあの時の公衆便所のもので……よくよく考えるのはよそう。水は水、H2Oに変わりなし。  道の向こうから妙齢《みょうれい》の御《ご》婦人が大荷物を抱《かか》えて歩いてきた。両手に下げていた籐《とう》のかごが、左右同時に下に落ちる。リンゴ、と呼ぶには巨大《きょだい》な果物《くだもの》が、音をたてて坂道を転がっていく。 「あの……」  言いかけておれは息を呑《の》んだ。彼女の目はこちらを凝視《ぎょうし》している。自分の目も彼女を見ている。浮《う》かんできた言葉はこうだ。  コスチュームプレイ(略してコスプレ)の人。  なんだろうあの引きずりそうなスカート丈《たけ》は。なんだろうあの顎で結んだ昔風の三角巾《さんかくきん》は。なんだろうあの青い目とくすんだ金髪は……外国人!? 何故《なぜ》アルプスの少女ハイジに出てきそうなロングエプロンドレスの外国人が、両手に荷物持って坂を登ってくるのだろう。しかも彼女はかごを落としたまま、こっちを指差して何事か叫び始めた。 「あ、あの、すいません、おどかしちゃったんならほんとにすいません。けどあのおれは此処《ここ》に捨てられちゃっただけでして、危害を加えようとか乱暴しようとかいう気持ちは全く……」  彼女の声がサイレン代わりになったのか、石造りのメルヘンな家から次々と人が飛び出し、早足で斜面を登ってくる。男も女も子供もいる。だがその人々は皆《みな》一様に。 「……ぜ、全員コスプレ?」  違《ちが》う、この人たちは確実に現代日本人ではない。そもそも全員がガイジンだ。おれたち日本人から見れば、天然の金髪や天然の茶髪、天然の碧眼《へきがん》や天然の割れアゴは、人種が違うとしか考えようがなかった。総勢十人以上の人々は、鋤《すき》や鍬《くわ》や鎌《かま》といった便利な農耕器具を手にして集まってくる。叫び続ける女と、わけのわからないまま腰を抜《ぬ》かしているおれのもとに。 「ちょっと待って、ほんとにちょっと待ってくださいよ、おれは此処に投げ捨てられちゃっただけで。えーと信憑性《しんぴょうせい》のある言葉で言うと、えー……遺棄《いき》! 遺棄されちゃっただけでして! あっ……あっ判《わか》った! 謎《なぞ》はすべて解けた、じゃなくって」  緊急《きんきゅう》事態で脳味噌《のうみそ》と舌はフル回転だ。日本とは思えない家並みとコスプレの外人の集団。おれの中で全《すべ》ての要因が繋《つな》がった。 「テーマパークでしょ!?」  そうですよ。コスプレの外人集団、異国風の町並み、二時間もののサスペンスドラマでよく利用される場所といったら、テーマパークしかないじゃないですか。 「いやー、まあそーだわ。すぐに気付かなかった自分が愚《おろ》かでした。テーマパークに捨てられたんだわ、おれ。けどそれにしても何処《どこ》、ここ? 雰囲気《ふんいき》からして新潟にあるっていうロシア村とかですか? にしても、あいつらずいぶん遠くまでおれを捨てに来たもんだねぇ……ってイテ、あっ、なんですかロシア村の皆さんっ、ちょっとッ、どうして、石、とか、痛ッ!」  テーマパーク勤務の皆さんは、日本人の愚かさを心得た外国人の方々のはずだ。なのになぜ必死の弁解中のこちらに向かって石を投げる!? いくら入園料を払《はら》っていなさそうだからって、投石したり農耕具(使いようによっては凶器《きょうき》)をかまえたりするのは、ちょっと過剰《かじょう》に反応しすぎだろ。 「あっ、あのっ、財布さっき取られちゃったんで入園料が払えないんですけどもッ、その分はきっと後日っ。いえ電話かしてくれさえすれば、本日中にッ」  本日中?  石や泥《どろ》を避《さ》けようと腕《うで》をかざし、巨大なフォークにも似た鋤を突き出してくる農夫に背を向け、怯《おび》えた顔で泣きだす幼児を茫然《ぼうぜん》と見ながらおれは思った。  どこまでも青い空? ヤンキーどもとやりあったのは、午後四時を過ぎていたというのに? 十五時間近く気を失っていたとも、考えられないことはない。だがその間だれにも発見されずに? テーマパークの警備員さんにも? そのうえ五月の陽気の中、学ランはズシリと濡《ぬ》れたままだ。一体おれ、どうなっちゃってんの!? 頭の中が疑問符《ぎもんふ》でいっぱいになってしまい、地面に額を押《お》しつける。理不尽《りふじん》な投石を受けているというのに、助けてくれる人はいない。  強い命令調の声が聞こえて、おれはガバッと顔を上げた。ありがたいことに、石が止《や》む。 「だっ……」  誰《だれ》と問い掛《か》けようとして、馬上の男を見て言葉につまった。村人たちとさして変わらないデザインの、だが光沢《こうたく》や織り目から明らかに質の違う服を着た人物が、オーバーアクションで馬から降りて、こちらに向かって二歩進み出る。  アメフトだアメフト、この人絶対アメリカンフットボールやってるよ。というような二の腕と胸板。まぶしい金髪《きんぱつ》とトルキッシュブルーの瞳《ひとみ》、少々左に傾いてはいるが、高く立派な鷲鼻《わしばな》、白人美形マッチョらしく薄《う》っすらと割れたアゴ。この場に外人好きな日本人女子がいたら写真を求めて列を作るだろうし、この場に日本人熟女がいたら彼のビキニパンツにおひねりをねじ込んでしまうだろうなという容姿だ。欠点は、これまた白人特有の三角で巨大な鼻の穴。  この男のことは密かにデンバー・ブロンコスと呼ぼう、おれが知ってるNFLのチームはそれだけだから。彼は村人に一言二言なにか告げると、地面に膝《ひざ》をついて覗《のぞ》き込んでくる。 「……あの……みなさんを宥《なだ》めてくれて、マジでありがとうござい……」  男の、ガタイに釣《つ》り合う巨大な手が、おれの頭をぐっと掴《つか》む。  このまま90ヤードくらいロングパスされるのかと思った。しかもそのままタッチダウンされるかも。だが掴まれた前頭葉(まさか)は投げ飛ばされはせず、指に力が加わった状態で、何秒間か動けなかった。 「……いッ……」  五箇所から一気に痛みが襲《おそ》ってきて、思わず小さく声を上げる。痛みというよりは衝撃《しょうげき》かもしれない。間違えて指をホチキスでとじてしまったような、痛みよりも恐怖《きょうふ》が先走る衝撃だった。やっと男の手が離《はな》れる、と同時に音が流れこんできた。耳から脳にかけてのルートが、まるで水が入ったようにツンと痛い。  風、木々、動物の鳴き声、同じくらい動物的な幼児の泣き声、そして言葉。  いきなり皆さんが日本語で話し始めた。なーんだ皆さん、日本語できるんじゃん。そりゃそーだよね、単身(家族連れかもしれないけど)日本に来て観光客相手に働こうっていうんだから、日常的な会話くらいマスターしてるはずだよね。だったらどうして今までロシア語(?)で喋《しゃべ》り続けていたんだろう。まったく人が悪い。美形マッチョがにやりと笑った。 「どうだ? 言葉がわかるようになったか」 「ああーやっぱ外人の口から流暢《りゅうちょう》な日本語が出てくると違和感《いわかん》あるなぁ」  言葉が通じたことで、これまでの緊張感《きんちょうかん》からやや解放された。とにかく状況《じょうきょう》を把握《はあく》しなければならない。おれは彼等が聞き取りやすいように、エセ外人風アクセントにしながら訊《き》く。 「それでですね、おれは自分でも知らないままに此処に捨てられちゃって、場所も時間も……あ、時間は時計持ってるから判りますが……えーとーぉ……スーイマセェン、コーコドーコデースカーァ? ワタシドーヤッタラ、オウーチカエーレマースカーァ?」 「なんだ」  デンバー・ブロンコス(もしくはアメフトガイ)は、腰《こし》に両手を当ててこちらを見下ろした。 「せっかく見目《みめ》いいと思ったのに、今度の魔王《まおう》はただのバカか?」  バカ? 「……初対面の、傷つきやすい年頃《としごろ》の少年に向かって、バカとはなんだバカとは」  おれの悪い癖《くせ》が頭をもたげる。小学生の頃からそうなのだが、脳味噌の演算処理能力がオーバーになって、赤いランプが点滅《てんめつ》すると、恐《おそ》ろしい勢いで話し始めるのだ。きっと喋ることで考える時間を稼《かせ》いでいるのね、四年生の音楽教師がそう感心した。ついたあだ名はトルコ行進曲。後にも先にもそう呼んだのは彼女だけ。 「まあ確かに中堅《ちゅうけん》どころの県立高校|在籍《ざいせき》で、その中でも誰かに妬《ねた》まれるほどの飛び抜けた成績ってわけじゃないよ。帰国子女だって言い張ってはいるけど、ボストンに居たのは生後半年。だからってバカはないだろ、いきなりバカは。こう見えても親父《おやじ》はエリート銀行家で、兄貴は現役で一橋《ひとつばし》だぞ」  自分自身の平凡《へいぼん》さを棚《たな》に上げて、家族|自慢《じまん》で勝負にでてみる。 「ちなみにおふくろはフェリス出だ!」 「フェ……なに? どっかの田舎《いなか》貴族か?」  そう返されてしまい、言葉に詰《つ》まる。学歴問題はグローバル的には効果なし。 「だからって……ッ」  だからってテーマパークの役者が客をバカ呼ばわりしていいってことにはならない。基本的にサービス業の就労者にとって、お客様は神様なのだ。その日本的経営法を説教してやらねばと、おれはなんとか立ち上がった。  村人役の人々の、尋常《じんじょう》ではない叫《さけ》び声。 「魔族《まぞく》が立ち上がった!」 「黒を身に纏《まと》う本物の魔族が立ち上がったよ早く子供を家の中へっ!」 「もうだめだもうこの村も焼かれちまうんだ二十年前のケンテナウみたいに」 「待ちなよけどまだこいつは若いし丸腰《まるごし》だししかも見てごらん髪《かみ》も眼《め》も黒い双黒《そうこく》だよ双黒の者を手に入れれば不老不死の力を得るって西の公国では懸賞金《けんしょうきん》をかけてるらしいぞ」 「ああそれはオレも聞いた小さな島の一つくらい買えちまうような額だった」 「気をつけろいくら丸腰だからってこいつは魔族だ魔術を使うはずだ」 「いやこっちにはアーダルベルト様がついてるアーダルベルト様この村をお守りくださいこの魔族をどうか神の御力《おちから》で我々に害の及《およ》ばぬよう封《ふう》じ込めてください」  何を言ってるんだこの人たちは!? 句読点を入れる場所が掴めなくて、日本語には聞こえるのに、スムーズに頭に入ってこない。おれは無意識に右手首を確かめた。堅《かた》くて武骨なGショックがある。動いているかどうかはわからないけれど、これで殴《なぐ》ったら少しは攻撃《こうげき》力がアップするだろうか。待てよそんな、殴るなんて、ちょっと待て、何考えてるんだ!? けどこいつら、どう見てもおれに敵意を持ってるし、身を守る権利は誰にでもある。緊急事態だ、違う、緊急|避難《ひなん》ってやつだ。あれ、正当防衛? 完全にパニック状態。  村人が凶器をかまえて、決死の形相でにじり寄る。アーダルベルトと呼ばれた奴《やつ》は農具や石は手にしていない。その代わり、腰には長い剣《けん》を帯びていた。攻撃力の高そうな男は言う。 「まあ、落ち着けよお前ら。こいつはまだ何も飲み込めちゃいねぇんだ。今のうちに説得すればもしかすると……」  背中を向けた遠くから、何か規則的な音が聞こえてきた。急速に大きくなるその音に全員が戸惑《とまど》いうろたえた。聞き覚えがある。蹄《ひづめ》の音だ。複数の馬が地を蹴《け》って駆《か》ける、地響《じひび》きにも似た力強い、蹄の音だ。 「ユーリ!」  名前を呼ばれて振《ふ》り返る。  白馬に乗った上様《うえさま》が、おれを助けに……。 「……がっ……」  それを見た感想が「が」で終わってしまったのも無理はない。駆け付けた三|騎《き》は白馬でも上様でもなかったし、しかもちょっと目線を空に向けると、とんでもないものが迫《せま》ってきていたのだ。そこには「あるもの」が飛んでいた。生まれて十五年と九ヵ月あまり、見たことも想像したこともないような代物《しろもの》が。  使い込まれて薄茶色《うすちゃいろ》くなった骨格見本に、竹ヒゴに油紙をはりつけたような翼《つばさ》が生えている。しかもそいつは羽根をバタバタさせて、当たり前のように空を飛んでいた。  ガイコツ、に羽根をつけると、飛べるもんなんですか?  素晴《すば》らしい、素晴らしく精巧《せいこう》にできている。支えているピアノ線も、浮力源《ふりょくげん》であるホバーやプロペラも見当たらない。この仕組みはどうなっているのだろう。 「離れろアーダルベルト!」  駆け付けた三騎はいずれも額に黒のある栃栗毛《とちくりげ》に近い馬で、抜《ぬ》き身の剣をかまえた兵士らしい男達を乗せていた。もっとも栃栗毛なんてJRA的な呼び方は、ここの住民たちには通じないだろう。リーダーらしき青年が、顔は見えないけれど厳《きび》しい声で、続く二人を制する。 「住民には剣を向けるな! 彼等は兵士じゃない」 「ですが閣下っ」 「散らせ!」  村民役の人々に割って入った三頭の馬は、一声いなないて前肢《ぜんし》を上げる。あまりの砂埃《すなぼこり》に口を覆《おお》って、おれは情けなく咳《せ》きこんだ。ベージュの霧《きり》の中で、青とオレンジがスパークする。追うようにガツンと、金属のぶつかりあう重い響き、集団が逃《に》げ惑う、乱れた悲鳴と草の音。  誰かに腕《うで》を掴まれる。周囲の幕が徐々《じょじょ》に薄くなる。 「フォングランツ・アーダルベルト! なんのつもりで国境に近付く!?」 「相変わらずだなウェラー卿《きょう》、腰抜けどものなかの勇者さんよッ!」  あ、解《わか》った。戦国時代の合戦の決まりごとみたいに、やあやあやあ我こそはなになにのなんたらかんたらなーりーと名乗ってからでないと勝負できないルールなんだな? と考えている間に、おれの身体《からだ》をゆっくりと地面から持ち上げられていった。埃の晴れた斜面《しゃめん》では、騎兵に追われた村人が家を目ざして走り、馬から飛び降りた青年がアメフトガイと剣を合わせていた。大地が遠くなったと思ったら、急に反転してその場から運び去られる。自分の体重がかかった腕が猛烈《もうれつ》に痛んだ。 「おれなんで飛んで……うそ!?」  おれの両腕を掴んで運んでいるのは、仕組みがわからないほど精巧な骨格見本だった。茶色の油紙に似た翼《つばさ》を動かして、よたよたと前方に飛んでいる。そいつはどこからどうみても、羽根のついた骸骨《がいこつ》に他《ほか》ならなかった。真下から見上げても脊椎《せきつい》の先にあるのは表情のつくりようがない顎骨《あごぼね》と頭蓋骨《ずがいこつ》だったし、うつむいた顔の眼窩《がんか》の部分には暗い空洞《くうどう》があるだけだが。 「なんかえーと、どーも」  攫《さら》われている身分にもかかわらず、礼を言いたくなるくらい、一生|懸命《けんめい》な気がしたのだ。ちょっとでも気を抜くと落ちそうになるのか、飛行骨格見本はパタパタと、必死で翼を動かしている。ちらりとこっちを見たアーダルベルトが、兵士のリーダー格らしいウェラー卿とチャンバラしながら言い捨てた。 「うまく仕込んだものだな! 骨飛族《こつひぞく》に人を運ばせるとは!」 「彼等は我々に忠実だ。私怨《しえん》にとらわれて自分を見失うこともない」 「貴様はどうだ、ウェラー卿? おぉっと」  運搬《うんぱん》中のおれが首をねじって見たところによると、アーダルベルトと呼ばれたミスター肉体派は、ウェラー卿というリーダーの切っ先を、すんでのところで飛びすさって避《よ》けたようだ。 「あんな連中のために使うには、その腕、惜《お》しいと思わねえのか?」 「あいにくだったなアーダルベルト」  ウェラー卿のほうは、相変わらずカーキ色の背中とダークブラウンの頭部しか見えない。それなのに何故《なぜ》か、彼が一瞬《いっしゅん》、笑ったのが判《わか》った。 「お前ほど愛に一途《いちず》じゃないんでね」  村人を残らず追い払《はら》った部下達が駆け戻《もど》ってくるのと、二人が互《たが》いに剣を引くのとは同時だった。アーダルベルトは馬に飛び乗り、木の高さを移動中のおれに叫んだ。 「少しの間の辛抱《しんぼう》だぜ、すぐに助けてやるからなっ!」 「助けて……ってーとおれは今、善悪どっちの組織に連れ去られようとしてるわけ!?」  眼下では敵を追おうとした兵士が、茶髪《ちゃぱつ》のリーダーにとめられている。 「よせ、深追いするな!」 「奴は一騎です。分が悪いと思ったからこそ引いたのでしょう、今追いつけばおそらくは」  ウェラー卿(依然《いぜん》として顔は不明)は、ビシッと言い放った。かーっこいー。 「今はなにより陛下の御身《おんみ》を、ご無事にお連れするのが最優先だろう!」  オンミをゴブジにオツレされるヘーカというのは、もしかしてこのスーパー歌舞伎《かぶき》みたいになってるおれだろうか? 超斬新《ちょうざんしん》なテーマパークで、超|凝《こ》った演出のアトラクションに参加しながら、陛下役のおれは密《ひそ》かに呟《つぶや》いた。 「……とりあえずこの、超よくできてる空中ライドから降ろしてくんねーかな」 [#改ページ]           2 「陛下!」と、その人は言った。  濃《こ》い灰色の長い髪《かみ》とスミレ色の瞳《ひとみ》、背筋の伸《の》びた九頭身で。  一人では降りられず、馬の背中で尻《しり》を押《お》さえたまま、おれは返事に困っていた。陛下と呼ばれて何と答えればいいのか。しかもこんな三十前後の、男盛りの超美形に!  この人の美しさを的確に表現できないのは、おれのボキャブラリーが貧困なせいでも、おれのCPUの回転が特別|遅《おそ》いせいでもない。平均的高校一年生のまわりには、そうそう美形なんていやしないし、ましてや目の前に立つ男は、見慣れた日本人でさえなかったのだ。  ウェラー卿の背中にしがみついたまま半日あまりという、初めてにしては苛酷《かこく》な乗馬体験ののちに辿《たど》り着いたのは、さっきよりいくらか規模の小さい、木造建築の村だった。家の数は十五|軒《けん》くらいで、村というより隣組《となりぐみ》だ。少し離《はな》れた森の入り口に、武装した兵が次々と別の方向から戻ってきていた。恐《おそ》ろしいことにパーティーには必ずあの「翔《と》べ、骨格見本!」がついている。まさかとは思うが、あいつはこのテーマパークのマスコットキャラクターなのだろうか。だとしたらすごい悪趣味《あくしゅみ》、いや、斬新な起用。  兵達とは離れて村の中央を突《つ》っ切り、大きめ(とはいっても4LDKくらい)の家の前まで来たときに、勢いよくドアが開いて彼が飛び出してきた。  顔を見た瞬間に言葉にするのを諦《あきら》めた。それくらい美形、もう超美形、スーパー美形、ウルトラ警備、じゃなかった、美形。怜悧《れいり》さを感じさせる端正《たんせい》な面持ちだとか言ってらんない。あったまよさそなすげー美人! 頭悪そな表現だが。  見目|麗《うるわ》しい上に声も腰《こし》にくるバリトン。さっきのアーダルベルトもかなりのハンサムさんだったが、この人はもう目が合っただけで女の子が失神するような完璧《かんぺき》さだった。二十代後半かという年齢《ねんれい》からすると、気を失うのは少女だけではないだろう。熟女も老……いや淑女全般《しゅくじょぜんぱん》。 「コンラート、早く陛下に手をお貸しして……」 「はいはいっと。陛下、こちらに身体を傾《かたむ》けて、ゆっくり降りてください、そうゆっくりと」  ウェラー卿の名前はコンラートというらしい。やっと馬から解放されて、両足が平らな場所に着く。まだ上下に揺《ゆ》れてる感じ。 「ああ陛下、ご無事でなによりです! このフォンクライスト、お会いできるこの日をどんなに待ち望んでいたことか」  芝居《しばい》がかった調子でそう言いながら、地面に膝《ひざ》をついた。おれはぎょっとして後ずさる。急な動きに臀部《でんぶ》が痛んで舌打ちすると、美しい人が顔色を変えた。 「陛下、どこかお怪我《けが》でも!? コンラートっ、あなたがついていながら」 「ケツが痛いんですよね、陛下。乗馬が初めてだったから」  ねっ、て。にっこりされて戸惑《とまど》った。だが、フォンクライストと名乗った美人さんはそれどころじゃない。 「初めて!? 最近の初等教育では乗馬の訓練もしないのですか? どうして眞王はそのような世界に陛下を……」 「とか言ってる場合じゃないようだよ、ギュンター。フォングランツに先を越《こ》されかけた」 「アーダルベルトに! 陛下、奴等《やつら》になにかされませんでしたか!?」 「……石を投げられて鍬《くわ》や鋤《すき》で詰《つ》め寄られたけど……」 「なんということを! あの人間ども……けれど、陛下……何故お言葉が」  なぜ言葉が通じるのかと訊《き》きたいのだろうか。おれは右手をへろへろ振《ふ》って、にやけかける頬《ほお》を我慢《がまん》する。 「やだなあ、皆《みな》さんの日本語はとてもお上手《じょうず》ですよ。通じるかどうか心配するなんて、謙遜《けんそん》するにも程《ほど》がある。もう出てくる人出てくる人、みんなペラペラでびっくりだよ。すげーや、ブラボー、ビバ役者|魂《だましい》。日本にきて何年目? お国はどっち?」  フォンクライスト(姓《せい》)ギュンター(名)が、怪訝《けげん》な顔をした。 「お国……は、ここですよ」 「日本生まれ!?」  その時、ウェラー卿が衝撃的《しょうげきてき》なことを言った。 「陛下、ここは日本じゃないんだ」 「あ、ほーらね、やっぱ日本生まれじゃないんでしょう? だったらここは……って」  はい?  ここは日本じゃない?  今、ここは日本じゃないっておっしゃった? 「じゃあなんで皆で日本語しゃべってるんですか?」 「しゃべってないよ」  この時初めて、おれはウェラー卿を真正面からじっくり見た。十九は二十歳くらいの背格好で、これまでの村人とは違《ちが》った機能的な服装だ。テレビや映画の影響《えいきょう》でか、カーキ色でベルトとブーツが革のそれは、どこかの国の軍服に思えた。  ダークブラウンの短めの髪と、薄茶《うすちゃ》に銀の虹彩《こうさい》を散らした瞳。眉《まゆ》の横には古い傷跡《きずあと》が残っている。傷はそこだけではなく、両手の甲《こう》や指にもあった。その手をおれの肩《かた》に置いて、わざと目線を下げてくる。 「ここは日本じゃないんだよ、ユーリ。日本どころか、きみの生まれ育った世界でもない」  こんな衝撃的なことを告げられていながら、おれはぼんやりと別のことを考えていた。ああ、この人はわかる。こいつのことを誰《だれ》かに伝えろと言われたら、きっとどうにかうまく説明できるだろう。  ウェラー卿コンラートというのは、ウィンブルドンのセンターコートで思わずガッツポーズをとると、観客が総立ちで拍手《はくしゅ》するような人だ。でもその祝福は彼の顔の造作のせいじゃない。ギュンターやアーダルベルトに比べれば、彼は地味で、ハリウッドの脇役《わきやく》にはこんなタイプが多いだろうという程度だ。けれどこの人の表情は、今まで生きてきた人生の結果だ。神が愛したものでも芸術家がつくりあげたものでもない、自分自身の生きざまだ。  と、いう奴なんだよ、コンラッドって。おれは誰かにそう教えてやれる気がした。 「コンラッド……じゃない、えーと、コンラート」 「え? ああ、英語に耳が慣れてるなら、コンラッドのほうが発音しやすいでしょう。知人の中にはそう呼ぶ者もいます」 「おれ、あんたとどっかで会ってるかな」  少し考えてから、コンラッドは首を横に振った。 「いや」  灰色のロン毛にスミレ色の瞳、年長の美形が割って入る。 「とにかく陛下、こんな場所ではお話もできません。むさ苦しいところですが、どうぞ中へ」  他人の家で勝手なことを言いながら、ギュンターはおれの背中を押した。ふと振り返ると木造の質素な家々のくもった窓に、この村の住人であるらしい人々がはりついて、こちらの様子を窺《うかが》っていた。  部屋《へや》は暖かく、薪《まき》ストーブに火が入っていて、湿《しめ》った学ランのままだったおれにはありがたい環境《かんきょう》だった。さっきまでは日本の五月だったのに、今はどこだ、どこの何月だ!? 西だか東だかも判《わか》らないような汚《よご》れた窓から、夕陽《ゆうひ》のオレンジが差し込んでくる。  公園のトイレから濡れて流されてまた濡《ぬ》れて生乾《なまがわ》きして、ここが日本の我が家だったら、とっととひと風呂《ふろ》浴びにいくところだ。  湿気《しけ》って気持ち悪い上着を脱《ぬ》いで、火の近くに広げようとする。そんなことでギュンターは感激したようだ。 「陛下、普段《ふだん》から黒を身につけていらっしゃるのですね。素晴《すば》らしい、素晴らしくお似合いになる! 平素から黒を纏《まと》われるのは、王かそれにごく近い生まれの者のみです。その高貴なる黒髪と黒い瞳、確かに我々の陛下です!」 「……ていわれても学ラン、制服なんで……それに日本人の大半は、生まれた時から髪も目も黒いんで……」  それぞれの成長過程によっては、肌《はだ》の色まで変わってしまうのだが。ちょっと前に流行《はや》ったいわゆるガングロとか松崎しげるに。おれの場合は中三の中頃《なかごろ》まで野球部員で、髪もようやく伸びてきたところだ。夏休みに入ったら思いきろうかななんて考えていた矢先。 「ガクラン? ガクランというのですかこの上衣は。なるほど、最高に腕《うで》のいい職人に、陛下のお召物《めしもの》として特別にあつらえさせたものなのですね」  実際は工場で大量生産。日本全国の男子中高生が愛用中。しかも三年間着られるようにと、現在の体格より少々でかい。 「陛下、寒いとお思いかもしれませんが、この国ではこれでも春なんですよ」  コンラッドがそう言って戸口の脇に陣取《じんど》った。見張りの役割のつもりなのか、剣《けん》を立てかけ腕組みをしたまま頭を壁《かべ》に預ける。ゆっくりと目をつぶった。  仕方なくおれはなるべく火の近くに椅子《いす》をずらし、山奥《やまおく》の民芸品店でしか見ないような荒《あら》っぽい丸木造りのテーブルについた。一般的には電灯がぶらさがっているはずの天井《てんじょう》からは、山小屋にありそうな心許《こころもと》ないランプが。 「……季節まで細かく設定してるなんて……どこまで凝《こ》ったアトラクション……」 「アトラクションじゃありません」  目を閉じたままのコンラッドに訂正《ていせい》される。 「だってそんなん急に言われて、信じられるわけないじゃん! おれの中では今のところ、いちー、金かかったテーマパークの凝ったアトラクション、にー、テレビでよくあるサプライズ企画、さーん、夢《ゆめ》オチー、のどれかだもん。さあ、どれか選んで。希望としては三番」  コンラッドは答えなかったが、目の前のちょっと困った顔をしたギュンターが、耳慣れない単語を呟《つぶや》いてからおれに向き直る。 「テーパー……さぷらいず……? お待ちください陛下、順を追ってご説明申し上げますから。どうか冷静に、異国の単語で私《わたくし》を試すのはお許しください」 「おっけー、おれは冷静だよ。もうあんたがおれの母親だって言われても、手ェ叩《たた》いて笑ってアメリカンジョークを返せるよん」  諦めて両手をあげると、向かいに座ったギュンターは、ぐっと身を乗り出して話しだす。 「では申し上げます。陛下、今から十八年前、陛下の魂はこの国にお生まれになるはずでした。ところが当時の戦後の混乱のためか、それとも陛下のお命を狙《ねら》う者の気配が国内にあったのか、眞王のご判断はあなたさまの御魂《みたま》を異界へ送るというものでした。そこで我々は未《いま》だお生まれになっていない陛下の気高い御魂を、眞王のご指示通りにあなたさまの地球にお連れいたしました。陛下はそこで現在の御《ご》尊父と御母堂の間でお体をつくられ、今日まであちらの世界でお育ちになられたのです。しかしつい先頃、本来なら異界で成人するまでは安全にお過ごしいただくはずだった陛下を、お呼びしなければならない事情が……」 「待ってくれ、あまりに『お』が多すぎてよく判らない。できたらもっとくだけた言葉で!」 「そんなご無理を仰《おっしゃ》らないでください。陛下は陛下であらせられ、我々は臣下なのですから」 「へーかへーかってさあ、おれの名前は有利、渋谷有利原宿不利なの。自分で言うのは久しぶりだけどっ。ここまでの展開はこうだよなッ!? 本当はおれはこの世界に生まれるはずだったけど、何らかの理由で違う世界で生まれ育った。けど今になって用事ができたから、日本からここまで呼び戻《もど》した。どっか違う?」 「素晴らしい、その通りです。そのご聡明《そうめい》さに感服いたします」  おれの自棄《やけ》になったまくしたてに、心底うれしそうにギュンターは深く頷《うなず》いた。  ナルニア、じゃなかった、なるほど、よくある話だ。映画じゃそんなのザラにあるし、アニメや漫画《まんが》でもよくあるネタだ。文庫本や児童文学書にだって、クオリティーの差はあるにせよ、そりゃあもう数えきれないほど転がっている。目新しさはまったくない。ただし、実際にそれに巻き込まれる人は滅多《めった》にいない。それも、公衆便所からというのは、非常に珍《めずら》しい。 「で、おれは便所穴から異世界につづくトンネルを通って、あの山道に落ちてきたわけね」 「そうなのです。計算では国内の、それも王都の範囲内《はんいない》にお呼びできるはずでした。しかし余分な力が加わったのか、国境を外れた人間どもの村に。申し訳ありません、陛下。万一に備えて国境に配した者達のうち、コンラートが間に合って本当に良かった。この土地はもう我が国の領土です、さしあたっての心配はございません。どうかご安心くださいますよう」 「ご安心っていってもさ、安心してる場合じゃないのはあんたたちだって同じだろ。ホントにあんたの探し人はおれなの? 日本の人口密度からいったら、人違いって可能性もあるぜ? おれなんか外見も脳味噌《のうみそ》も平均的だし、変わった形のアザもないしさー」  おれの身体《からだ》のどこにも、こういう場合によく証拠《しょうこ》になる特殊《とくしゅ》な形の痣《あざ》はなかった。強《し》いて言えば左肘《ひだりひじ》に微《かす》かに残る、ガキの頃のひきつった痕《あと》だけだ。 「だってえーと、ギュンター、さん、左腕の火傷《やけど》っぽいのは、野球やってて人工|芝《しば》で擦《こす》った痕ですよ。生まれつき持ってる『陛下の証《あかし》』みたいのは、おれの身体のどこにもないし……」  知的だった様子が、ちょっと崩《くず》れて甘《あま》くなった。よくいえば熱愛報道にこたえる俳優みたいに。悪くいえば猫《ねこ》のことを語る飼《か》い主みたいに。 「いいえそれはもう陛下、一目お姿を拝見した時から、このお方に間違いないと強く思いましたとも! 純粋《じゅんすい》で気高い黒の髪《かみ》、澄《す》んで曇《くも》りない闇《やみ》の瞳《ひとみ》、こんな美しい色を身に宿してお生まれになり、その上、漆黒《しっこく》のお召物をまとわれるのは、あなたさま以外に考えられませんから」  げ、美しいとか言ってるよ。美しいっつーのはアンタみたいなヒトのことでしょ。 「それに、お言葉が堪能《たんのう》だったことで、一層はっきりいたしました。アーダルベルトがしたことは……私としては口惜《くちお》しくてなりませんが……奴《やつ》は陛下の魂《たましい》の溝《みぞ》から、蓄積《ちくせき》言語を引き出したのです。どんな魂も例外なく、それまで生きてきた様々な『生』の記憶《きおく》を蓄積しています。もちろん通常はその扉《とびら》が開くことはなく、新しい『生』で学んだことだけを知識として活用してゆくわけです。ところがあの男はその扉をこじ開けて、封印《ふういん》された記憶の一部を無理|遣《や》り引き出してしまったのです。野蛮《やばん》で卑劣《ひれつ》で無節操な、人間どもの使う術で!」  語気の荒い説明に、おれは怖《お》ず怖《お》ずとうかがった。 「……便利なことのように聞こえるけど」 「とんでもない! 巧《たく》みに言語の部分だけを呼び起こせたから良かったものの、不要な記憶まで甦《よみがえ》っていたらと思うと! 自らの魂の遍歴《へんれき》を知りたがる者などおりませんよ」  日本には知りたい人が多いみたいだけどなぁ。戸口の横から、コンラッドが冷静に口を挿《はさ》む。 「けど考えようによっては、我々が今こうして陛下とお話しできるのも、あいつの術のおかげだろ。済んじゃったことで青筋たてるのは時間の無駄《むだ》だよ、フォンクライスト卿《きょう》」 「……陛下に高等貴族語をお教えするべく、教本と物差しを用意しておりましたのに……」  心底悲しそうな口調だけど、おれとしてはモノサシの使用法が気になるところだ。アンダーライン目的なら、無問題。 「とにかく、言語蓄積があるということは、陛下の御魂がこの世界のものであったという証拠です。今では自信が確信に変わりました」 「ギュンターさんたら……どっかで聞いたこといっちゃってさ……」  どうやら彼等はおれのことを『陛下』と信じて疑わないらしい。  だが、こういうシナリオはだいたいの場合、勇者とか救世主とか王子とか王女とかとして呼ばれた主人公が、その世界の問題を無事に解決し、めでたしめでたし一件落着ぅーと終わる。ハッピーエンドではない物語は好まれないと、高名なベストセラー作家も言っているほどだ。 「わかったよ、信じろったっておれには多分無理だけど、とにかくこれを終わらせるには、そっちの話に乗るしかないわけだろ? だったらさっさと済ませちゃおうぜ、おれが呼ばれた使命は何? なんてお姫《ひめ》さま助けりゃいいの? どこのドラゴンやっつけりゃいいの?」 「ドラゴンですって? 竜《りゅう》ですか!? 竜を殺すなんてとんでもない、あの種は人間どもの乱獲《らんかく》で絶滅しかかっていて、我々が必死で保護しているのです」  この世界では、ドラゴン、レッドリスト最上位。  木の扉が遠慮《えんりょ》がちに数回叩かれて、剣に手をやったコンラッドが用心深く細く開ける。立っていたのは十歳かそこらの子供達で、彼を見上げて満面の笑みになる。 「よう」 「コンラッド! 投げるの教えて、どうしてもうまく狙えないんだ」 「打つのも教えて、そのあとどうなったら終わりなのかも」  親達は兵士を恐れて家から出てこないが、子供にとってはそうでもないらしい。そして彼等にとっては、ウェラー卿でも閣下でもなく、ただの年上のコンラッドさんということか。 「おまえたち、もうすぐ日が暮れて真っ暗になるぞ。すぐに何も見えなくなる」 「まだ平気だよ」 「まだ大丈夫《だいじょうぶ》だよ」  彼は困ったようにこちらを向き、頭を下げてから部屋を出ていった。 「……子供に好かれてるとこ見ると、いいヤツみたいだね、あの人は」 「ええ、武人としてはおそらく王国一でしょう。私の自慢《じまん》の生徒でした」 「教師なんだ、えーと、フォンクライストさんは」 「どうかギュンターとお呼びください。もちろん、私は教師です、そして王陛下を補佐《ほさ》する、王佐としてもお仕えしております」 「教師だってんならズバッと簡潔に教えてもらおうか。ギュンター、おれはこの世界で何をすればいいわけ? どんな厄介《やっかい》な敵を倒《たお》せば、埼玉の実家に帰してくれんの」 「人間です」  ストーブの薪《まき》がパチンと爆《は》ぜた。 「……人間……それで、それは、どんな人物で……」 「人物、ではありませんよ陛下。我が国に敵対する全《すべ》ての人間どもを滅《ほろ》ぼし、奴等の国を焼き尽《つ》くす。そのためには指導者として、君主としての陛下の御力《おちから》が必要なのです」  人間を、滅ぼし、焼き尽くす?  人間を滅ぼす!?  おれは椅子《いす》を蹴《け》って背後に逃《に》げ、失敗して床《ゆか》に尻餅《しりもち》をついた。慌《あわ》ててギュンターが駆《か》け寄る。 「大丈夫ですか、陛下っ」 「うわ、待った! あんた人間を殺そうっていうのかギュンターさん!? だったらおれも殺されることになっちゃうよ! だっておれどっから見ても平凡《へいぼん》な人間だし、いや待てよ、そんなこと言ったらあんたたちだって、ちょっと顔は人間ばなれしてるけど……やっぱ人間だよな」 「陛下はどこから見ても我々と同じ魔族《まぞく》です。いえそれ以上に、高貴な黒を持たれる敬うべき存在のお方です! 身体に黒を宿してお生まれになるのは、魔族といえども王か、それに近しい、選ばれた御霊《みたま》の方のみです。しかも髪と瞳の両方が黒い、双黒《そうこく》の現人《あらひと》となりますと……」  聞き逃《のが》せないフレーズがあった気がする。 「我々と同じ、なんだって?」 「魔族です」  まさか。 「……で、おれはなんの、陛下だって?」 「魔王陛下であらせられます」  魔王。  お父さんお父さんほらそこに「ほにゃら」がいるよこわいよ。  ハクション大「ほにゃら」。  元、横浜《ハマ》の大「ほにゃら」。  あれ、ハマの大「ほにゃら」は、答えが違《ちが》ってる気がするな。  そもそも何だっけこの「ほにゃら」って。  人間を呪《のろ》ったり襲《おそ》ったりぶっ殺したりする、おっそろしい悪魔の親分だった気がするな。  で、それはそれとして、おれはなんの陛下ですって? 「しっかり、陛下、しっかりしてください! お気を確かにもって! あなたは我等の希望となる、第二十七代魔王陛下なのですよっ」  ああー、やっぱりぃィー、やっぱおれのことを魔王なんて呼んでるぅー。けど二十七はいい数字だよねー、27はー。  肩《かた》を掴《つか》まれてがくがくと揺《ゆ》さぶられている。あまりのショックで意識が現実|逃避《とうひ》してしまったのだ。だってこの人、おれに悪魔になれとか、人間どもをぶっ殺せとか言うんだ。そんなバカな、そんなことできっこない、どうして敵がスライムとか悪の魔法使いとかデビルドラゴンとか大魔王じゃないんだー、って、魔王はおれか、じゃ、おれは、この世界では敵側か!? どっかに人間の勇者か救世主がいて、最終ダンジョンで倒されるラスボスがおれか!? くっそーだったら二回や三回のリセットで終わらせないように、全力で勇者と戦ってやる! レベル99くらいないとエンディングに行けないように、こっちも死ぬ気で……おい最終的には死ぬ気どころか、確実に死ぬじゃん、ラスボスのおれ。ピンチ時によくあるマシンガンシンキング! 敵の魔法|攻撃《こうげき》でパニック状態!  あああーうそーっ、誰《だれ》か嘘《うそ》だと言ってくれー! 「嘘じゃありません陛下っ! ほんとにあなたが魔王なんです。おめでとうございます、今日からあなたは魔王です!」  何がおめでたいものか!  外はもう半ば紫《むらさき》で、残りの半分はオレンジ色だった。  家々の窓から漏《も》れる灯《あか》りも、頼《たよ》りなくゆれるランプの火だけ。そんな中で子供たちがはしゃぐ声と、ぼんやりとした笑顔が動き回っている。 「陛下?」 「うっわ、やめてくれ、陛下なんて呼ばないでくれ」  コンラッドは腕組《うでぐ》みをしたまま壁《かべ》に寄り掛《か》かっている。三歩|離《はな》れた所に四角い板切れがあり、その横に十歳かそこらの子供が立っている。両手で構えている棒からすると、どうやらクリケットと野球の中間みたいなゲームらしい。グリップ部分に布を巻いたバットは妙《みょう》に太いし、ピッチャーの後ろに野手は二人、その上どこにもキャッチャーがいない。 「おれ、クリケットのルールは知らないんだけど、一人打ったら次は誰が交代すんの?」 「交代もなにも、この村には子供が五人しかいないんですよ」  もう一人は外野にいた。夕暮なので影《かげ》だけだ。  投手がボール、らしいものを投げると、打者が思い切った空振《からぶ》りをする。壁に当たって転がるボールを、コンラッドが拾って投げ返してやる、という進行具合だ。 「空振り三振でアウト。ハウエル、一|塁《るい》と代われ」 「野球だったのか」  だが、なんでこの剣と魔法の世界に野球が……。外野にいた子供が走ってくる。五人の中では体格がいい方の、金髪を突っ立てた少年だ。 「待て待て、野球ならどうしてキャッチャー置かないの。あんたが座ってやればいいじゃん」 「大人《おとな》が入ると不公平だから」 「いや、そーいう問題じゃねーよ、そーいう問題じゃ。じゃあそうだな、外野だったやつ。きみ名前なんてーの?」 「ブランドン」  まさに声変わり真っ最中という、いがらっぽく嗄《しゃが》れた声だった。 「じゃあブランドン、お前キャッチャーやれ。ほらそこしゃがんで、来た球を受ける。ああもしかしてミットがないのか、それどころじゃない、グラブも無いの!?」 「陛下……じゃなかったユーリさま、ここは国境の向こうから流れこんできた難民の村なんです。遊び道具が充実《じゅうじつ》してるわけがない」  子供はおれの手を振り切り、怯えた様子で見上げてきた。 「陛下!? 陛下って、コンラッド、この人だれ!? 母さんたちが言ってた恐《こわ》い人!?」 「ブランドン! この方は我が国の王になられるんだよ。恐い人どころか、お前たちの村を守ってくださるお優しい方だ」  そんな考えてもいないこと、子供に宣言しないでくれ。 「王様!?」  だが集まってきた五人……男の子四人と女の子一人は、その場に跪《ひざまず》いて顔を覆《おお》った。額を地面に押《お》しつける子もいる。大尊敬、という様子じゃない。 「お許しください王様っ、どうか首をはねないで下さい、どうか家を焼かないで」 「ハウエル、お前たちは何も悪いことをしてないんだから、陛下がそんなことなさるわけがないだろう。ほらエマ、顔を上げて」 「けど王様は父さんを……っ」  つらい記憶が甦《よみがえ》ったのか、少女が声を上げて泣きだす。何|軒《けん》かの扉が開いて母親がそれぞれの名を叫《さけ》ぶと、子供たちは一斉《いっせい》に、家に向かって駆け出した。  おれは足元にあった球を拾った。この軽さであのピッチャーなら、マスクもミットも必要ないだろう。ボールといっても丸く縫《ぬ》った革袋《かわぶくろ》に藁《わら》を詰《つ》め込んだ軟《やわ》らかいもので、投げた本人にもどんな変化球になるか予測できないシロモノだった。 「おれがあいつらくらいの頃も、やっぱり暗くなるまで野球やってたなあ。それで夜になったら今度はゲームとテレビで、宿題とかやるヒマ全然ないの」 「どこの国でも、子供なんてそんなもんです」  ホームベース代わりだった板切れを踏《ふ》んでみる。 「なあ、コンラッド」 「はい」 「おれが王様だってのは本当? しかも、泣く子も黙《だま》る、大魔王だってのは」 「本当です。大がつくかどうかは定かじゃないけど、陛下は正真|正銘《しょうめい》、第二十七代|眞魔《しんま》国君主です」 「それじゃおれも、国民の首をはねたりすんのかな」 「それは違う! ここは難民の村だと言ったはずです。確か六年前の冬に、宗教的な誤解から弾圧《だんあつ》を受けて、男たちは全員処刑されたとか。庇護《ひご》を求めて国境の関まで来た女子供に、農地を広げないという条件で、ほとんど課税もしないまま、我々はこの土地を貸してやっているんです。男たちを殺して家を焼いたというのは、彼等が捨ててきた人間の国の、愚《おろ》かな王のしたことですよ。もっとも……」  コンラッドは唇《くちびる》をかみ、悔《くや》しそうに下を向いた。 「……そんな人間ばかりじゃないってことも、覚えておいてほしいです。さ、陛下、中に入りましょう。日が暮れると急激に温度が下がります。またギュンターに説教されちまう」  星が光りはじめた。月はまだ低い。窓からもれる明かりは、ぼやけて頼りない。  光るものは他《ほか》に何もない。ネオンも自販機《じはんき》もコンビニも街灯も。  なんてとこに来ちゃったんだろ、おれ。 「……なんて罠《わな》に、はまっちゃったんだろ、おれは」 「だけど、ここがあなたの世界だ」  民家の扉《とびら》を開けながら、コンラッドは笑った。他にたいした光源もない宵闇《よいやみ》には、室内のランプの明かりでさえ、まるで横向きのサーチライトだ。 「おかえりなさい、陛下」  あなたの魂《たましい》が在るべき場所へ。  ああ、食文化の違い!  夕食と称して与《あた》えられたのは、犬でもかじらないような靴《くつ》の革と、常温でも釘《くぎ》が打てそうな乾燥《かんそう》したパン、噛《か》むより舐《な》めるほうが歯にいいだろうというドライフルーツだった。 「これは軍用の携帯《けいたい》食だから、こんなに乾燥しているんです」  と言い張るギュンターと差向いで、おれは一口三十回|咀嚼《そしゃく》を黙々《もくもく》と実行した。死ぬほど腹が減っていたが、それくらい噛まないと飲み込めない干し肉だったのだ。  子供に好かれる軍人ナンバーワンのコンラッドは、ブランドンかハウエルかエマあるいは名前を聞かなかった二人の家で夕食をご馳走《ちそう》になるらしい。 「おれもそっちに行きたいよー」 「いけません。この村の住民は人間ですよ、人間の作ったものなど召《め》し上がって、お身体《からだ》に障ったらどうなさいますか」 「おれ人間だから平気だって」 「いいえ! 連中が不届きなことを企《たくら》まないとどうして言い切れます? 陛下のお命を危険にさらすようなことなど、このギュンターにはとてもできません」  そして、ああ、寝具《しんぐ》文化の違い!  おれとしてはもちろん自分が、住民から借り上げたというこの家の一番上等な寝室で寝《ね》られるものだと信じていた。だって魔王だっていうんだから、疲《つか》れ切った身体をふかふかの布団で休ませるくらいの贅沢《ぜいたく》は許されるだろう。ここまで見てきた世界観からすると、布団というよりベッドかもしれないけど。ところがおれの問いに、ギュンターは当然という顔で答えた。 「どうして? ねえちょっと、どうしておれは寝袋《ねぶくろ》で、さっきの寝室に入ってった兵隊さんはふかふかベッドなわけ!? なあおれホントに王様なの? それ以前にこのシュラフ、ちゃんとお日さまに干してある?」 「陛下のお命を狙《ねら》って寝室に賊《ぞく》が押し入ったらどうなさいますか、先程の兵は身代わりです。ここなら窓からの襲撃《しゅうげき》はありませんし、入り口はコンラートが固めますからご安心を」 「陛下、明日は一日中馬の背中ですからね。今夜はゆっくり寝て、体力たくわえて下さいよ」  ぐっすり寝ろといわれても、窓さえないような狭《せま》くて埃《ほこり》っぽい納戸《なんど》に閉じこもり、申し訳程度に綿の入った茶色のアウトドア寝袋を広げられては……。床《ゆか》は硬《かた》いし野営用シュラフはタフガイ仕様。おまけに外国製ハンサムさんに囲まれて眠《ねむ》るのも初体験だ。ああ、なんという「川の字」睡眠《すいみん》。王様ゲームの王様だって、もっと自由を保証されているだろう。  そして翌朝、ああ、交通文化の違い!  寝不足のおれの前には、元気よさそうな五頭の栗毛《くりげ》が引き出されていた。早朝のきんと澄《す》み切った空気に、彼等の鼻息は勢いよく白い。 「また馬ぁ!?」  濡《ぬ》れて、再び乾《かわ》いたバリつく学ランを着たままで、おれは巨大《きょだい》な生き物に恐《おそ》る恐る手をだした。うひひん、と脅《おど》されてひっこめる。 「だってあんたたち魔族《まぞく》なんだからさあ、魔法とか自由に使えるんだろー?」 「魔法……魔術のことですね」 「うん、そう、魔法。だったらなにも、都? だか城だかまでさ、猛《もう》スピードで馬で走んなくたって、魔法でばひゅーんと飛ばしてくれればいいことだろ」  どこでも扉《とびら》とか、バンブーコプターとか、そういった便利なもので。  ギュンターはわざとらしい咳払《せきばら》いをして言った。 「陛下、魔術とはそう万能なものではないのです」 「えー? おれの見たテレビではさ、魔女とか魔法使いとかが、ほとんど科学を無視した方法で、杖《つえ》を振るだけで何でもできてたけど」 「てれびというのが誰の書いた戯曲《ぎきょく》や舞台《ぶたい》なのかは存じませんが、それは不必要に誇張《こちょう》された情報です。魔術が役に立つのはほとんどが戦闘《せんとう》の時ですし、それ以外では、ほら、陛下をお呼びした際のように、非常に重要で特殊《とくしゅ》な場合のみです」  テレビと現実は違うってことか。おれがひとことごねようとすると、 「まあ簡単にいうと、省エネ」  鼻面をこすりつけられながら、コンラッドが言った。 「もっとも、魔力のかけらさえ持ち合わせてない俺《おれ》がそう言っても、説得力はないけどね。さあ陛下、俺とギュンターのどっちとタンデムする? 昨日おっしゃってた乗馬経験は……」 「メリーゴーランド少々」 「そう、カルーセル少々でしたね。そんなんじゃ三日かかっても王都に着けないから、やっぱり俺の後ろに乗ってください。こいつらの負担は増えるけど、細かく中継《ちゅうけい》していけば、まあ頑《がん》張《ば》ってくれるでしょう」 「まだ昨日のケツの痛みさえ治ってないのに……え、カルーセルって何で知ってんの」 「まあ覚悟《かくご》しといてくださいよ。今日は前も痛むかも」  先行する兵士たちが、彼等に挨拶《あいさつ》して次々と発《た》ってゆく。見上げるとその上空には、昨日同様に改造骨格見本が。もちろん、自分たちの頭上にもだ。やはりマスコットキャラクターなのだろうか、だとしたら名前は? コツモ飛び丸? ミスターカルシウム? 「コッヒーはどう? やっほーコッヒー、昨日は運んでくれてサンキューな。同じヤツなのかどうなのか、ちょっと区別がつかないけど」  勝手に名前を決めて、ひっそり手なんか振ってみる。と、顎《あご》をカタカタ鳴らして、はばたきを盛んに繰《く》り返した。ものすごくグロテスクだ。思わず教育係に訊《き》いてしまう。 「うわ、怒《おこ》った! ねえあれ、怒ったの!?」 「いいえ、陛下にお声をかけられて、感極まっているのです。彼等には『個』という概念《がいねん》がありませんから、一人に告げれば全体に伝わったも同然です。骨飛族同士は離《はな》れていても簡単な意思伝達が可能なので、見張りや斥候《せっこう》には非常に重宝なのですよ」  難しい言葉が多くてよくわからないが、一人は皆《みな》のために、皆は一人のためにということか。 「さ、陛下、我々もそろそろ」  コンラッドが手綱《たづな》を右手に、おれを引き上げようと左手をさしだす。ビビッてるのか顔も見せない村人の中で、一軒だけ扉が細く開き、突っ立った金髪《きんぱつ》が覗《のぞ》いていた。 「あーあ!」  そっちに向かっておれは叫んだ。 「もったいねーなぁ! もうちょい重くて硬い球で練習すれば、あいつらもっとうまくなるのに! バットももっと滑《なめ》らかに削《けず》って、グリップ細くすれば打ちやすいし、それに……」  あとやっぱ、捕手《ほしゅ》がいなくちゃね。 「キャッチャーがいなくちゃねー、野球にはー!」  金髪が母親に掴《つか》まれて、慌《あわ》ててドアが閉まるのが見えた。 「俺はときどき、この村に寄るんですが」  勢いをつけておれを引っ張り上げてくれる。 「つらい経験をしたにしては、あの子たちはよく頑張って育ってます」 「ああ」  父親を殺されて家を焼かれるなんて、おれには想像もつかないけど。  ギュンターが不満げな顔をしているが、それを見ないふりで馬の腹をつつく。  地獄《じごく》の一日の始まりだった。  健気《けなげ》にも時を刻み続けるアナログGショックによると、朝から六時間ぶっ通しで走り、中継点と呼ばれる場所で二度ほど馬を乗り換《か》えた。三度目の中継点は、後にしてきた村よりもずっと大規模な集落で、柵《さく》の外側に馬をつないだ一行は、ギュンターの合図で休憩《きゅうけい》に入った。 「よっぽどお疲れのようですね。さっきから意味の解《わか》らないことばかり呟《つぶや》いてますよ、陛下」  コンラッドが絶えず励《はげ》ましながら走らせるので、馬の名前を覚えてしまった。その、ハシバミ色の乙女ノーカンティーから転がり落ちながら、おれは掠《かす》れ声で訴《うった》えた。 「助けてくれ」 「もちろんです。あと半分走り切ったら、どんなことでもしてあげます」 「じゃなくて、いますぐ」 「だったらとりあえず、熱量の補給にかかりましょう。要するに、昼メシ」  地面に下りたはずなのだが、まるで船に乗っているみたいだ。おまけに春の第二月らしいのに、冷蔵庫が恋《こい》しいような日差しだった。 「食欲なんかないよ。夜は寒いし、昼は暑いし、のどは埃でカスカスだしまったく、あ」  望んでいたとおりの物が差し出され、思わず手をのばして慌てて止めた。  一日体験教室で素人《しろうと》がつくったような、不格好《ぶかっこう》なグラス。ふちまで注《つ》がれた水の冷たさで、外側には霜《しも》と水滴《すいてき》がついている。今まさに欲しいもの、それは。 「……冷たい水……」 「陛下っ!」  ギュンターが早足でこちらに来る。どうせまた人間のくれるものを飲み食いするなと言うのだろう。けど水の盆《ぼん》を捧《ささ》げ持つ十歳そこそこの女の子は、髪《かみ》も瞳《ひとみ》もスミレ色だ。色以外の全ては人間と同じだが、だが……。 「きみは魔族なんだよね?」  少女がうなずく。 「はい陛下。我等の持てる最後のひとしずくまで、陛下のお役に立てれば幸せです」  だったらいいでしょう。彼女は魔族で、おれは魔族の王様なんだから。ガラスに指が触《ふ》れる。思ったとおり、痛いほど冷たい。教育係が、何か言っている。 「陛下、お待ちくださ……」  手の中から水がなくなって、横を見上げるとコンラッドが、おれから取り上げたグラスを口元に運んでいた。一口飲んでから、こちらに返してくる。短く「少し残して」とだけ囁《ささや》く。  ほんのわずかに飲み残したグラスを盆に戻《もど》すと、女の子は嬉《うれ》しそうに、深くお辞儀《じぎ》をして走り去った。喉《のど》を通った冷たい感覚は、一気に胸まで広がって、かき氷の直後みたいに眉間《みけん》が痛み、一瞬《いっしゅん》だけ足下がふらついた。急に頭がすっきりして、周囲の緑が濃《こ》く見えた。 「……おれすっげー渇いてたらしいや。真夏の部活中の脱水《だっすい》症状なみに」 「あの子は陛下に水をお出しできたことを、一生の自慢《じまん》にしますよ、きっと」  人のいい笑いでそんなことを言っている。だが、こういうシーンは時代劇で知ってる。彼は今、毒見をした。おれのために、毒見をしたのだ。  あきれたような顔で教育係が近寄ってくる。 「陛下、我々が持参した物以外はお口になさらないようにと、再三申し上げましたのに」 「だって此処《ここ》は完全に魔族の村なんだろ? 住んでる人達だってさあ、ほらギュンター、あんたにも似てる、妙《みょう》に美形の奴《やつ》が多いし」 「だからといって……」  コンラッドはノーカンティーから鞍《くら》を外し、ヒトと同様に彼女にも水を持ち上げてやった。 「変な味はしなかったし、溶けずに沈《しず》んでた場合も考えて、最後の一口は残していただいた。陛下だって物分かりの悪いお方じゃない、最初の一杯《いっぱい》に冷たいのが欲しかっただけで、あとは水嚢《すいのう》の水でも携帯食でも、何でも我慢《がまん》してくださるさ」 「コンラート、あなたは庶民《しょみん》に肩入《かたい》れしすぎです」 「だから何?」  しれっとした顔で、コンラッドが言う。 「国民に肩入れしなくて、誰《だれ》にしろっていうんだ? ああもちろん……」  ノーカンティーが彼の髪を咬《か》んだ。楽しげに、愛《いと》しげに。 「陛下には肩なんていわずに、手でも胸でも命でもさしあげますが」 「……胸とか命はいらないよ」 「そうおっしゃらずに」 「そんかしあんたの魔術を貸してくれ。おれはもう今こそ非常事態なんで、魔術でばひゅーんと飛ばしてくれ。もう馬はだめだ、もう馬はしんどくて」 「魔術に関してはちょっとなあ。なんせ俺は魔力が皆無《かいむ》だって言ったでしょう? 魔術に関しては我が国でも最高の術者の一人である、ギュンターがお役に立てますよ」  眉《まゆ》を顰《ひそ》める。きゃーギュンターさまー憂《うれ》ってるお姿もちょーカッコイイー。 「私などよりも、陛下|御自身《ごじしん》の魔力のほうが数倍上です。なにしろ歴代の魔王のお力といったら、神族でさえも恐れをなすほどでしたからね」 「ちょっと待った。おれ人間だから魔力とか霊力《れいりょく》とか超能力とかぜんっぜん持ってないよ」 「へ、い、か、は、ま、ぞ、く、で、す!」 「だって霊が見えたこともマークシートが当たったことも女子の水着が透《す》けたことも、コックリさんの十円玉が動いたことも……」  告白。小四の時、放課後の教室でやったコックリさんは、おれが自分で十円玉を動かしました。いっしょにやってた野沢《のざわ》が恐がって泣いちゃって、おれがやったとはとても言い出せませんでした。何を勘違《かんちが》いしたのか、ギュンターは感心したような笑みを見せる。 「ご想像なさってるのは異国の高度な儀式《ぎしき》ですか? 魔術と関係があるかは私の無知のせいで判《わか》りかねますが……でも大丈夫《だいじょうぶ》ですよ、陛下。魔力は魂《たましい》の資質です。今はお使いになれなくとも、いずれこの世の何もかもが、あなたの意のままになりますとも」 「そうも思えないなー」  魔力の欠片《かけら》もないらしいコンラッドは、愛馬の鼻面をゆっくり撫《な》でている。 「俺は使えなくても、不便を感じたことはないけどね。ま、そちらは長期的展望でやっていただくとして。とりあえずは一人で馬に乗れるようになってもらわないと困るんですけど」 「一人で、おれが!?」  ノーカンティーが激しく頭を振《ふ》ると、飲み残しの水とも彼女の鼻水ともつかない水滴が飛び散った。これに、おれが!? 「いえもちろん、突《つ》っ走れなんていいません。王都に入ってからだけでいいんです。国民を失望させては可哀相《かわいそう》でしょう? 彼等は強く気高く絶対的な王を求めてるんだから、やっぱり馬くらい一人で乗って、堂々と入城していただかないと」 「うはぁ……こいつにィ?」 「いいえー。とっておきの淑女《しゅくじょ》をご用意いたしましたよー。生まれるときも俺が手懸《てが》けて、今日まで丹精《たんせい》こめて育て上げた愛娘《まなむすめ》を。陛下にばっちりお似合いの真っ黒いやつ」  白馬に乗った上様《うえさま》、の夢《ゆめ》は、潰《つい》えた。 [#改ページ]           3  明かりを灯《とも》しはじめた店が数えきれないほど並び、人々はにぎやかに忙《いそが》しく動き回っていた。巨大《きょだい》な門はおれたちのために開かれ、衛兵達が神妙な面持ちで背筋をのばす。  となりに馬を進めながら、ギュンターが言った。 「おかえりなさい、陛下。あなたの、そして我々の国である、偉大《いだい》なる眞王とその民たる魔族《まぞく》に栄えあれああ世界の全ては我等魔族から始まったのだということを忘れてはならない創主たちをも打ち倒《たお》した力と叡知《えいち》と勇気をもって魔族の繁栄《はんえい》は永遠なるものなり……」  国歌? 「……王国、王都にようこそ」  かと思ったら国名だった。略して眞魔《しんま》国、とコンラッドが小声で教えてくれた。そっちのほうだけ覚えておくことにしよう。  王都に入った感想は、非常に解《わか》りやすくのべると「ケタの違うハウステンボス」というものだ。町並みといい、住民たちといい、おれの目から見るとまるで異国だ。けれど、もうさすがにテーマパークなのではないかとは疑わなかった。こんなに巨大で、こんなに凝《こ》ったテーマパークは日本には存在しない。たとえ日本ではなく、どこか海外なのだとしても、そこまで手のこんだ方法で一個人を騙《だま》す理由など、どこにあるだろうか。  昨日まで、その辺の平凡《へいぼん》な高校生だった自分を。  今日からあなたが魔王ですなんて。  騙されていないとなると、残る答えは「夢オチ」のみ。 「だったら醒《さ》めるまで、つきあうしかねーじゃん」  乗りかかった船は港につくまで降りられないし、野球だってほとんどの場合は九回裏までゲームセットにならない。ENDマークが見たけりゃゴールまで付き合えってこと。 「何をおっしゃってるんです? 陛下、さあ参りましょう、私《わたくし》とコンラートが両脇《りょうわき》に並ばせていただきます」  わかりましたよ、参りますとも。  前に九人、残りを後に従えて、一行は三列でメインストリートを進んだ。通りにいた住民は皆、両脇によけて、おれに向かって深々と腰《こし》を折った。 「あ、ども。あ、えーと。あ、ちぃース。あ、これはご丁寧《ていねい》に」  律儀《りちぎ》にもいちいち返礼すると、年長の教育係はあきれ顔だ。 「陛下……民に頭を下げるのはおやめください。もっと威厳《いげん》をおもちになって」 「なにいってんの、挨拶《あいさつ》は人間関係の基本だよ。それはどこの世界でも同じ。万国共通のルールだろ」  今まで通ったどこの村よりも、この街は裕福そうに見える。  少なくとも、表通りに面した場所は。  まるで優等生にでもなったように優雅《ゆうが》に歩く馬の背から、おれは都市を見下ろした。ついさっき主人となる男を二度も振り落とし、黒い悪魔と恐《おそ》れられた馬とは思えない。  王のために用意された駿馬《しゅんめ》は、滅多《めった》に生まれない漆黒《しっこく》の毛並みで、日本では青毛、この国では闇毛《やみげ》と呼ばれていた。パドックで見た競走馬よりも、ずんぐりしていて足も太い。軍馬としての資質をすべてかねそなえているらしい。たとえ心臓が止まっても、主人を乗せて走り続けるという。理由、心臓が二つあるから。ちょっとしたズルだ。  覚えやすいから名前は「アオ」にした。人間でいえば太郎みたいなもんで、日本では昔から馬の名前の主流だ。時代劇とかでよく出てくる。  人々の髪《かみ》や肌《はだ》の色は、実に多彩《たさい》で非現実的だった。聞かされていたとおり、確かに黒髪の者はいない。金髪《きんぱつ》、茶髪、銀髪、白髪、赤毛、栗毛、オレンジ(染めてんのかな)、紫《むらさき》(白髪《しらが》染かな)、緑(葉緑素ありそうだな)…………緑!? 「ねねねねねねえ、ギュンターっ」 「はい」 「あそこに緑色の人がいるんだけどっ、ううう宇宙、宇宙、宇宙」 「ああ、癒《いや》しの手の一族ですね。彼等は血の色が少々独特なために肌も青白くなるのですが、患者《かんじゃ》の治癒《ちゆ》力を向上させる、特殊《とくしゅ》な力の持ち主なのです。二千年前に人間達が彼等を迫害《はくがい》したために、この地に流れて来たようです。おかげで現在の我々の長命があるわけですが」 「じゃ、じゃあ、あの紫の髪の人は? さっきの女の子もそうだったけど」 「湖畔《こはん》族です。生まれつき魔力の強い者が多く、王都では教育や保安に携《たずさ》わっています。お気付きかもしれませんが、陛下、私も湖畔族の血を受け継《つ》いでおります」  スミレ色の瞳《ひとみ》が、そうなのか。  おれは馬上で溜息《ためいき》をついた。 「心臓が二つの馬に、空飛ぶ生きた骨格見本、緑や紫の天然の髪。日本にいたら出会えなかったもんばっかだよ。まさかもうこれ以上はでてこないだろうな。ウサ耳の女の子とか、セクシー黒豹《くろひょう》ギャルとか、目が三つある鳥人とか」  想像してうろたえるおれに笑いを堪《こら》えながら、コンラッドは教育係にめくばせをした。 「この国には信じられない数の種族がいます。長く生きてる俺《おれ》やギュンターばかりか、学者連中でも確認できてないような者達も。例えば、ヒト型に限定して数えれば個体数は約五千万だけど、骨飛族や骨地族、水棲《すいせい》族や石鳥族となると正確な数さえ解らない。その上、森林や山岳地帯にひっそり暮らしてる魂たちのことを考えれば、空にも、大地にも、川にも、木々にも、あらゆる場所に魔族は存在することになる。陛下、あなたに従う意志は、この国のあらゆるところに散らばっているんですよ」  あきらかにその一員である金の瞳の少女が、アオの横を小走りについてきながら花を渡《わた》そうとしている。薄紅色《うすべにいろ》の八重の花弁が、わずかに開きかけた可憐《かれん》な花束だ。受け取ったギュンターが一回り確認してから、おれに渋々《しぶしぶ》差し出した。 「観賞用の平凡な花です。毒もなければ刺《とげ》もありません。あの娘としては私より陛下にお渡ししたかったのでしょうから」 「そんなことないのにー。おれよりあんたのがずーっとモテそうなのにぃー」  女の子から花をもらうなんて生まれて初めてのことだから、気分としてはまんざらでもない。  行軍は何事もなく進み、やがて今度こそ本当の城壁《じょうへき》にたどりついた。  重い音をたてて門が開かれる。 「……うっわ」  その時たしかにおれの頭の中では、あのテーマ曲が流れ、緒形直人《おがたなおと》のナレーションが聞こえた。世界遺産、ああ世界遺産、世界遺産。城のすばらしさを詠《よ》んだ一句だ。  白い石畳《いしだたみ》の直線道路が遠くまで続き、両脇には滔々《とうとう》と流れる水路が。二手に岐《わか》れた水の行方《ゆくえ》は、街の東と西に向かっている。正面を見上げると、ヨーロッパ城物語でよく目にするような、とはいってもドイツ古城タイプではなくイギリス大規模カントリーハウスタイプの、左右対称の建築物がどーんとあった。ワイド画面かというくらい、横にも縦にも幅を取っていた。背後は緑豊かな山が守り、水路は山腹のトンネルから始まっていた。 「……あのねえ、おれもう何をどう言ったらいいのか判んなくなってきたよ」 「なにも仰《おっしゃ》らずとも、ここが魔王の王城『血盟城』ですよ」  血盟? 日本史的には「一人一殺!」という恐ろしいコピーを持った団体がいたのだが、なんにしろあまり穏《おだ》やかな名前ではない。こんなに美しく立派な城には、聞かないほうがいい由来が……聞きたかないってのに教育係は説明してしまう。 「眞王がこの地を王都にお選びになった時に、地の霊《れい》を傷つけないことを約束されたのだそうです。地の霊は感謝と友好のしるしとして、この城を魔王以外のものが占拠《せんきょ》した場合、その血をもって罪を贖《あがな》わせることを誓った。血の盟約、つまり血盟城は、魔王陛下にしか従わない。難攻《なんこう》不落、いえ完全無欠の王城だというわけです」 「はあ、じゃあお城とその王様がそれぞれ血判を押したわけじゃないんだな」  コンラッドはとても楽しそうに、中央の通路を顎《あご》で示した。両サイドには遙《はる》か先まで、直立不動の兵士が並んでいる。きっとおれが通ると、スタジアムの逆ウェーブみたいに頭を下げていくのだろう。こんな状況《じょうきょう》に立たされたのは、近道しようと開店と同時にデパートを突《つ》っ切った時の、いらっしゃいませ攻撃《こうげき》以来だ。  どこからかラベルとエルガーがユニット組んだみたいな曲も聞こえてくる。多分、国歌なのだろう。 「この歓迎《かんげい》ぶりだと、フォンシュピッツヴェーグ卿《きょう》の説得は失敗したようだな」  その舌を噛《か》みそうな名前の人は誰だ。それよりもどうしてこの国の皆《みな》さんはフォンとか卿とかが同時につくのだろう。ひょっとして、フォンというのは日本人でいう「山」みたいなもので、山田さんと山本さんと山川さんという具合で、多い苗字《みょうじ》の代表格なのか。それとも……。訊《き》きたそうなおれを察して、コンラッドは説明してくれた。いよいよ庭園に踏《ふ》み込むと、案の定、いらっしゃいませ地獄《じごく》。 「この国は魔王の直轄地《ちょっかつち》と、魔王に従う十貴族の領地に分かれてるんです。フォンってのは、十貴族の姓《せい》につくわけです。治めてる土地の名前にフォンをつけたものが、それぞれの姓になってるんですよ。ギュンターの場合、クライスト地方を治めてる十貴族の出だからフォンクライスト卿。卿がつくのは、有事の際には戦場に赴《おもむ》く者だから。基本的に貴族は軍人階級ですからね。男も女も同じです。戦う覚悟《かくご》のあるものは成人すればそう呼ばれることになる」  あれ、最初に会ったマッチョの名前にもフォンがついていたような気が。 「フォンシュピッツヴェーグ卿シュトッフェルは、前魔王の兄君で、摂政《せっしょう》として権力をほしいままにしていた男です。前魔王が……今となっては上王陛下というわけですが、彼女が辞意を表明して、我々は即座《そくざ》に陛下をお喚《よ》びするべく動いた。けれど奴《やつ》は、どうにかして辞意発言を撤回《てっかい》させようとしたんです。上王陛下を説得して、自分の地位を守ろうとしたんですね。ところが、どうやらそれに失敗したらしい」  あれ、コンラッドの名前には……。 「今度は新王の入城を盛大に祝って、陛下に取り入ろうって算段だよ」  この、いいひとを地でいくウェラー卿の、憎《にく》しみに似た表情は初めてだ。だがそれはすぐに消えた。おれが花束を、右手に持ち替《か》えるわずかな間に。  自分で感情をコントロールしたのか、ギュンターがすぐに言葉をつないだせいなのかは判《わか》らない。 「もうあの男の自由にはさせません。こればかりはグウェンダルもヴォルフラムも、間違《まちが》いなく同じ気持ちでしょう」 「そう願いたいもんだね」  なにかあったんだ。どんな鈍《にぶ》い奴でも気付くだろうが、おれもそう思って身を乗り出した。花を持つ右手が、猫《ねこ》をかぶってたアオの耳に近づく。 「あのさ、そのスピッツだかスピルバーグだかいう人は……」  アカデミー賞を何回とったの? というオチまで言うことはできなかった。いきなりキレた黒い悪魔が、ケツに仕込んだV8エンジンを全開にしたからだ。  なにがどう気に入らなくて、彼女が暴走したのかは、乗り手のおれにもさっぱり判らなかった。確かなのは、振《ふ》り落とされたら無事では済まないということだけ。直線コースを突っ走る馬体に必死でしがみつき、悲鳴ともイェイともつかない叫《さけ》びをあげながら、おれは一人だけ異様に早く、城の正面にゴールインしようとしていた。  敬礼しようと並んでいた兵達も、目の前を過ぎる黒い疾風《しっぷう》がまさか新王陛下だとは思わないだろうなぁッ。後ろからアドバイスが聞こえる。 「陛下ーっ、手綱《たづな》っ、手綱をーっ」 「コンラートっ! やはりあの馬は、まだ調教が、足りませんよっ」  腹を蹴《け》って後を追いつつ、ギュンターが言葉を詰《つ》まらせた。 「泣くこたないだろ、この程度で。教育はしっかり、できてるんだけど、さすがに俺も、花アブが耳に、入るとこまで、想定した訓練は、してなかったなっ。へーいかーっ、手綱引いてー、腿《もも》で挟《はさ》んでーっ!」  おれはおれで、暴走トラック店舗《てんぽ》に突っ込む、とか、客も店員も頭かばって右往左往とかいう見出しばかり考えていた。アオは何箇所《なんかしょ》かの段差を軽々と飛び越《こ》え、城の正面|玄関《げんかん》に迫《せま》りつつある。これまでずっと縦一列だった兵達が、突然《とつぜん》横一列になっていて邪魔《じゃま》な場所を、アオはするりと走り抜《ぬ》けた。茫然《ぼうぜん》とする男たち、中央に金髪のナイスミドル。  また段差を飛び越えた。空中にいる短い間に、最悪の事態を想像する。  おれは馬から落ちて、コンラッドとギュンターに、あとのことは頼《たの》むって言い残してがくっと首が傾《かたむ》く。あとのことって何!? がくって何故《なぜ》!?  扉《とびら》の閉まった正面入り口まであとわずかという所で、アオはいきなり棒立ちになった。落とされる! と焦《あせ》ったおれは、手綱ばかりでなく彼女の漆黒の鬣《たてがみ》を掴《つか》み、目をつぶって衝撃《しょうげき》を予測した。だが、五秒待っても痛みはこない。 「……止まってる……」  と、気を抜いた瞬間《しゅんかん》に落ちた。残念ながら今回、下は硬《かた》くて冷たくて値段も高いという大理石だ。受け身は大切だと、身をもって知ってしまった。  仰向《あおむ》けになったまま、おれはぼんやりと思った。  ああ、天井《てんじょう》が高い。まるで国立科学博物館のホールの床《ゆか》に寝転《ねころ》がったみたいだ。  アオが数回、足踏《あしぶ》みをして、顔をすぐそばまで持ってきた。自分のしでかした恐ろしいことなど覚えてもいないような澄《す》んだ瞳で「なにやってんの、おやびん」と訊いてくる。唇《くちびる》はよだれの泡《あわ》でいっぱいだ。  肩《かた》の横に、誰《だれ》かの足がある。視線を少しずらすと、高い位置に顔があった。とんでもなく背の高い人なのだろう。だがその男は、声をかけてもくれなければ、手を貸してくれもしなかった。ここまであからさまに無関心な奴は、この世界に来てから初めてだ。おれは本当に魔王《まおう》で、この城の主人で、これはホントにおれ自身の夢《ゆめ》なのだろうか。  だったらもっと、楽しませてくれてもいいんじゃないの? 「陛下ーっ」  コンラッドとギュンターの声が聞こえる。石に叩《たた》きつけられる蹄《ひづめ》の音も。男は二人の言葉から何かを悟《さと》ったようだ。ずっと上の方から、あきれたみたいな独り言が降ってくる。 「……陛下……これが?」  コレとは何だ、コレとは、と抗議《こうぎ》するよりも早く、頭の中にゴッドファーザー愛のテーマが流れていた。あんたのテーマソングはもう決定だ。誰の手も借りずに立ち上がったおれの前には、予想どおり、何度生まれ変わっても身長ではかなわないという相手が居た。  身長ばかりではない、顔もかなわない、顔も。  中途半端《ちゅうとはんぱ》に長い髪は、黒といっても差《さ》し支《つか》えないような濃灰色《のうかいしょく》で、一部分だけを後ろで縛《しば》っていた。すがめられた瞳は深く青く、楽しいことなど何一つないようだ。眉《まゆ》と目の間が狭《せば》まっているから不機嫌《ふきげん》そうに見えるのか、不機嫌だからそうなのか、おれの短い人生経験じゃ判らない。けれど彼の不機嫌さに、女の子はきゅーきゅーいうはずだ。  魔王だとかいわれながら、内面も外見も地位に追っつかない高校生はグレはじめた。どうせおれは、容姿も頭脳もボチボチです。筋骨|隆々《りゅうりゅう》でもなけりゃ、声が重低音なわけでもない。おまけに野球をやらせたら、三年間ベンチウォーマーという情けなさだ。  男は興味をひかれたのか、首を傾けてこっちを眺《なが》めた。ますます悩《なや》ましさが際立《きわだ》った。 「陛下、お怪我《けが》は!?」  先に着いたコンラッドが、ひらりと馬をおりて歩み寄ってきた。それを追い越そうとして、さっき邪魔だったナイスミドルの一団が駆《か》けてくる。ギュンターも葦毛《あしげ》を飛び降りて何事か叫んでいた。人々の中心にいるのが自分だなんて、おれにはとても信じられなかった。 「それが新魔王だというのか!?」  癇《かん》に触《さわ》るようなアルト声が響きわたるまでは。  四人目の超《ちょう》美形は、体格的にはおれでも充分《じゅうぶん》勝負できそうだった。足の長さは人種的|特徴《とくちょう》だから仕方ないとして、背とか肩幅とか体重とかは。いつからこんなにガタイのことばっか気にする奴になっちゃったかなあ、おれ。それは多分、「あんたって、的が小さいから、どーも投げ込みにくいんだよなー」って二番手ピッチャーに言われたあの日から。  肉体勝負ではどうにかイーヴンに持ち込んだのだが、視線を上に持っていった途端《とたん》に、もう負けが確定した。どうよ、この美しさ! とばかりに、彼の頭部はオーラを発していた。まばゆいばかりの金髪《きんぱつ》のせいで、そう見えちゃったんだろうけど。ウィーン少年合唱団OBみたいな声と容貌《ようぼう》だ。透《す》けるような白い肌《はだ》、湖底を想《おも》わせるエメラルドグリーンの虹彩《こうさい》、しかも顎も割れていない。天使だ、まさに怒《いか》れる天使。しかしこの場所にいるということは、やはり彼も、美しき魔族、なのだろう。 「グウェンダル……いえ兄上、あんなやつの連れてきた素性も知れない人間を、王として迎《むか》え入れるおつもりですか!?」  あんなやつ、のところで、少女|漫画《まんが》的超美少年はコンラッドの方を鋭《するど》く睨《にら》む。グウェンダルという名前はさっき聞いたが、いっしょに並んでいたのは確かヴォルフガングかヴォルフラムだった。ということはゴッドファーザー愛のテーマの男がグウェンダル、ウィーン少年合唱団OBのほうが、ヴォルフラムだろうか。 「ぼくはあんな薄汚《うすぎたな》い人間もどき[#「もどき」に傍点]を信用する気になれません! 見たところ知性も威厳《いげん》も感じられない、その辺の街道にでも転がっていそうな男を……」 「ヴォルフラム!」  兄だというグウェンダルではなく、ギュンターが彼の言葉を制した。 「なんという畏《おそ》れ多いことを! 陛下が広いお心をお持ちでなかったら、今頃《いまごろ》あなたは命を落としているところですよっ」  心が広いってのは、おれのこと? 他人《ひと》ごとのように考えてしまう。 「口を慎《つつし》みなさい、陛下を畏れぬ物言いは、たとえ王太子のあなたといえども許せません! コンラートのことを悪《あ》し様《ざま》に言うのもおよしなさい、仮にもあなたの、兄上なのですよ」  あれ。  聞いているだけのおれには、人物相関図がゴチャゴチャになってきた。ゴッドファーザーとウィーン少年合唱団OBは兄弟、コンラッドはヴォルフラムの兄、ということは。  グウェンダル、コンラート、ヴォルフラム。  魔族三兄弟。 「……うっそ!? に、似てねェーっ」 「そりゃ、もうしわけない」  コンラッドが、横に歩いてきながら、にこやかに言った。こんなことにはもう慣れてる、という表情だ。 「それぞれ父親が違うんだよ。ま、似てようが似てまいが、血の繋《つな》がりを無効にすることはできない。グウェンダルは俺《おれ》の兄で、ヴォルフラムは弟です。おそらく二人はそんなこと、口にしたくもないだろうけど」  あんたは? と、おれは心の中で訊《き》いた。  コンラッド、あんたは彼等をどう思ってんの?  だがその疑問を口にするよりも早く、全員のアテンションは再び自分にプリーズされていた。陛下の御前、というギュンターの一言で。 「新王陛下っ」  ナイスミドルが足元に駆け寄る。もう美形を見慣れてしまって、この男の外見がどうであろうがかまわなくなってしまった。んー、えーとーお、五十代にしては麗《うるわ》しい、くすんだ金髪と青い目のオヤジ。ただし瞳の奥《おく》の隠《かく》し扉に、卑劣《ひれつ》な作戦を仕込む場所あり。 「私は、前王であり上王となるフォンシュピッツヴェーグ卿《きょう》ツェツィーリエの兄で、この国の繁栄《はんえい》のため摂政《せっしょう》として働かせていただきましたフォンシュピッツヴェーグ・シュトッフェルでございます。陛下のご無事なご到着《とうちゃく》を、心より歓迎《かんげい》いたします!」 「あのさあ、フォンシュピッツヴェーグ卿」  わざとくだけた口調で話しかける。 「あんたはおれと、あんたの兄弟と、どっちに魔王でいてほしいの?」 「は!?」  ばーか。即答できないってこと自体、我が身がかわいいって証明なんだよ。 「はっ、もちろん、新王陛下にございます! 王室の時機を見計らった交代は、総《すべ》ての民の利ともなりましょう。新王陛下は全《すべ》ての救い主、この国の将来をお造りになる、偉大《いだい》なる魂《たましい》の持ち主だとも聞き及《およ》んでおります」 「人違いだと思うな。おれはそんな、偉大な魂の人じゃねーもん」 「ご謙遜《けんそん》を! その漆黒《しっこく》の御髪《おぐし》、闇夜《やみよ》の瞳《ひとみ》! 陛下こそ魔族の頂点に立たれるお方です」  この国の基準は、髪と目が黒けりゃ、あなたがたのようなハンサムガーイ! にも勝ててしまうのですか。つまりおれは平均的日本人だってだけで、この国のシード権を獲得《かくとく》してるってわけですか。  なんかそんなの、嘘《うそ》っぽくてやだな。  シード権もらうなら、やっぱ実績を残してからでないと。 「証拠《しょうこ》はどこにある!?」  敵意むき出しという口調で、まさに今、考えていたことを言われてしまった。ブロンドの外見天使・ヴォルフラムだ。 「そいつが本物だという証拠は? それを確かめるまでは、こんなガキが魔王だと認める気はないからな」 「ガキ!? あ、いやそりゃ外人さんの歳《とし》は見た目じゃ判んねーって、おれも知ってるつもりだけど。けど、けどだよ? どう見てもきみは、おれと同じ歳くらいに見えるぞ。アメリカの高校生なみに大人《おとな》びてるとしたら、もしかしたらおれより年下なんじゃないの」 「いくつだ?」  ふんぞり返った腕組《うでぐ》みをしたまま、三男が居丈高《いたけだか》に訊いてくる。どうやらこの人には、敬語禁止なんて命じる必要はなさそうだ。 「……十五……あと二ヵ月で十六……」 「ふん」 「ふんって何だ、ふんって。じゃあお前は何歳だよ!? そーんな美少年ヅラしてて、もう老人だとかいうんじゃないだろうな」 「八十二だ」 「……はい?」  八十二歳? それにしてはお肌のハリが、頭髪の量が、若々しさが。 「ってそんなわけねーじゃん!」  あんたたち、おれのお祖父《じい》ちゃんよりも、人生経験豊富なの!?  二日ぶりの風呂《ふろ》は、貸切どころか個人専用だった。  クリーム色を基調にした石造りの浴室は、魔王陛下のプライベートバスで、浴槽《よくそう》は水泳の公式記録がはかれそうなくらい広く、角が五本の牛の口から湯がゴボゴボと流れ出ている。第一コースのはじっこに、ちんまりと身体《からだ》を沈《しず》めながら、おれはこれまでとこの先の我が身を想った。  どーするどーなる渋谷有利!?  洋式便器に流される、テーマパーク風の異世界に放り出される、住民に石投げられる、魔族だって言われる、魔王だって言われる、人間どもを殺せって言われる、死ぬほど馬に乗らされる、みんなにお辞儀《じぎ》される、恐《こわ》い名前の城につれてこられる、これが? って言われる、お前なんか魔王と認めないと言われる、皆《みな》さんの実年齢《じつねんれい》は見た目カケル五だと告白される、恐い名前の城に入らされる。  部屋《へや》数は二百五十二、三階建て一部五階建て、天井《てんじょう》サーブが不可能なほど高く、ゴジラでさえ手を焼く頑丈《がんじょう》なつくり。  息切れするくらい長い階段、城内で働く人の数は百九十余、厩《うまや》の向こうには質素だが巨大《きょだい》な兵舎、常勤の兵士は四千五百。別の方角にある客舎は現在グウェンダルとヴォルフラムの隊が使用していて、彼等は兵を自分の領地から連れてきている。  とりあえず案内された部屋はバスケのコートくらいの広さで、暖炉《だんろ》に火が入り床《ゆか》には織物と毛皮が敷《し》かれていた。白の塗装《とそう》ですっかり隠された石壁《いしかべ》には、小学生の頃に母親に連れられて、上野で見たものに似た絵画。残る三面には国旗らしきものとタペストリーが。意外にも部屋の隅《すみ》には観葉植物。 「テレビ無いし、ゲームないし、MDないしィ」  それ以前に電気もガスも、電話もないし。 「……ベッド……超デケーし……」  ベッドは、でかかった。  天蓋《てんがい》こそついていなかったが、中学生になった五つ子ちゃんがみんな一緒《いっしょ》に休んでも大丈夫《だいじょうぶ》というくらいデカかった。  辛《かろ》うじて急所が隠れるくらいの腰布《こしぬの》だけを着けた麗しき三助さんが、ゴージャスで金ぴかな桶《おけ》でお背中をお流しくださるという申し出は、きっぱりと断った。劣等感に苛《さいな》まれるから。  手近にあったボトルから、薄桃色《うすももいろ》の液体を手に取る。いいにおいだ。多分これがシャンプーだろう。ガシュガシュ擦《こす》って手桶でガンガン湯をかける。コンディショナーはなし! 男らしい、というより体育会系。  身体もしっかり洗ったし、二日ぶりの風呂も堪能《たんのう》したから、もういちど湯槽《ゆぶね》であったまってそろそろ出ようかな、と思った時だった。 「あら」  おれが入ってきたのとは逆の入り口から、バスタオルを巻いただけの女性が姿を現わした。女子、ではない、女性だ。まさか此処《ここ》、混浴!? 待てよ、ギュンターは確かプライベートバスだって言ってた。ということは彼女は、おれに対するサービス? そんないかがわしいサービスがあるもんかい。いや今まで庶民《しょみん》だったから知らなかっただけで、王様とか大臣とか代議士先生にはアリなのかもしれない。けどちょっとちょっとーッ! この広いプールのよりによって第二コースに、並んで身体を伸《の》ばさなくてもぉぉーッ!  腰まである金色の巻毛が、困っちゃうくらいセクシーな女性は、おれからほんの一メートルのところに胸までつかった。湯気、もしくは緊張《きんちょう》と興奮で目が霞《かす》み、はっきりとは見えないけど、とんでもなくフェロモン系。タオルの下はボンキュッボーンだし、上気した目元と頬《ほお》と唇はピンクに染まって美しい。  しかも「女性」だ。同年代の「女子」ではなく。 「あーら」 「あああああの、ここここ混浴だとは聞いてなくてっ」 「いーえぇ、いいのよぉ。ここは魔王陛下だけのお風呂ですものぉ。あたくしはちょっと、いつもの癖《くせ》で入ってきちゃっただけ。お気になさらないで、新王へ、い、か」 「うっ、あ、ちょっとだめ、近寄んないでくださいようっ」 「ね、あなたが新王へいかなんでしょ? 奇遇《きぐう》だわぁ、こんなところで会えるなんてっ」  いまや、顔と心臓と下半身のどこに最も血液が集中しているのか、冷静には判断できなくなっていた。やばいやばいやばい! おれまっとーな思春期迎えてるだけに、なおさら十倍、二十倍やばいって! 「あっあのねえ、お嬢《じょう》さん、じゃないな、おねーさんっ、カラダ流さずにいきなり湯槽に入るのはルール違反よッ!? その上そーやってバスタオル! お湯ん中にタオル入れるのも公衆浴場ではマナー知らずよッ!?」  声がほとんど裏返っている。みのもんたみたいには言えてない。 「あら、ごめんなさい。殿方《とのがた》とお風呂に入るのなんて、すっごく久しぶりだったから」  彼女は動けなくなっているおれを眺《なが》めて言った。 「くす……かーわいぃ」  その瞬間《しゅんかん》、おれは、泣き声とも悲鳴ともつかない叫《さけ》びを残して走りだしていた。  カワイイってのは何のことをおっしゃったのですかセクシーさんっ、どうしてあなたは王様風呂に入ってきたのですかフェロモンさんっ、それでもって結局のところ、あなたは誰《だれ》だったんですかセクシークィーンさんっ!  腰にタオルを巻いただけという格好で突《つ》っ走り、教えられた自分の部屋と思われる所へ飛び込んだおれは、またまたそこに若くてかわいい女の子が居たことで、文字にはならないような声を上げた。 「どうなさいました陛下っ」 「どうかしたのか陛下ッ」  自称・ユーリ派の二人が駆け付けたときには、光沢《こうたく》ある黒の布を抱《かか》えた少女が部屋の隅で震《ふる》えており、巨大なベッドにうずくまった新王陛下は、虚《うつ》ろな視線をさまよわせながら、何事か低く呟《つぶや》いていた。ケツ丸出しで。 「陛下、陛下ッ」 「……女の子は好きだ、女の子は好きなんだけど、見られていいかっていうと、見られんのはやだってことで、それはおれとしてもそんなビッグでマグナムな人じゃないってことで」  侍女《じじょ》を部屋から帰すと、コンラッドはベッドにやってきた。その頃《ころ》にはおれもやっと落ち着きを取り戻《もど》していて、座りなおして腰にシーツをかけるくらいの分別があった。 「やれやれ、お尻《しり》はしまってくれたんだな」 「この国にはプライバシーはないのかよ!?」 「陛下、王に従者や侍女がいるのは当然のことだよ。いちいちそれに驚《おどろ》かれていたら……」 「風呂や部屋にまで入ってくるのはあんまりだろ!? そんじゃこの国ではエロ本どこに隠《かく》せばいいわけ!? 風呂場で全裸《ぜんら》の美女にナンパされかけたら、どこに逃《に》げ込んでハアハアすりゃいいんだよ!?」 「湯殿《ゆどの》で全裸の美女に? ああ……」  コンラッドは、なんてことだといわんばかりに天を仰《あお》いだ。 「……やってくれるよ」 「おれはまた、なんかのサービスなのかと思ってさ、もうちょっとでお願いしちゃうとこだったんだからなっ……まあとりあえず、おれ、そんなに大物じゃないから、逃げ出してきたんだけどさ」 「よかった、陛下の理性に感謝します」 「うっ、ううっ、べいがっ、こちらをおべじにっ」  黒い布を持つ教育係が、鼻をぐずぐずいわせていた。すっかり涙目《なみだめ》になっている。 「どうしたの急に、花粉症?」 「も、もうじわげございまぜんっ、習慣もお立場もまったく異なる初めての地にいらして、ご苦労なさってるお姿を見ているうちに……あまりに健気《けなげ》で同時にいとおしく……ああっ申し訳ありませんっ! とんでもないことを口にしてしまいましたっ、わたくしとしたことが、とっ取り乱しましてっ」 「どうしたギュンター、お前らしくないな」 「花粉症だったら鼻ウガイがいいよ、鼻ウガイ。おれの兄貴もかなり楽になったって」  服を取ろうとした拍子《ひょうし》に、おれの指がギュンターの腕に触《ふ》れた。彼はすごいスピードで壁まで後ずさる。熱でもあるように顔が赤い。一番上にあった艶《つや》のある布を持ち上げると、どうやらそれは下着の一種らしかった。 「パンツまで、黒、しかもツヤツヤ、しかも」  紐《ひも》パン。両脇《りょうわき》できゅっと縛《しば》るやつ。振《ふ》り返るとコンラッドは、別に当たり前という顔。 「なんで男なのにヒモパン!?」 「え? 一応それが一般《いっぱん》的な下着なんで」 「うそ、じゃああの人もあの人もあの人もヒモパン!? あーんな顔しててもあいつもヒモパン!? まさか、あんたも」 「あ、いや、俺《おれ》はもっと庶民的なのを」 「ぶひゃっ」  二人同時に振り向くと、壁ぎわでギュンターが鼻を押《お》さえていた。やっぱり杉花粉にやられたか、くしゃみが来たら確実だ。目もどっかとろんとしているが、何というか、こう、いきなりイタリア男になったような口調で話しだした。もともと超絶《ちょうぜつ》美形だから、女の子だったらコロリと引っ掛《か》かっちゃうだろう。 「身持ちの堅《かた》い御《ご》婦人のようなことを仰《おっしゃ》って、私を困らせないでください、陛下。脱《ぬ》がせやすい下着を避《さ》けるということは、扉《とびら》を叩《たた》く私自身を拒《こば》まれたも同然……って……はっ!? 私は今なんてことをッ」  深紅の薔薇《ばら》でも差し出しそうな雰囲気《ふんいき》だったのが、ひとりボケ突っ込みで我に返る。 「もっ、ぼうじわげございばぜんッ! わたくし、ふっ、ふっ、不埒《ふらち》な想像をッ」 「生理食塩水で鼻ウガイだって、生理食え……不埒、って、なに?」 「頭を冷やしてまいりますっ」  駆け出してゆく背中に、冷やすんじゃなくてウガイだってェーと叫んだが、聞いちゃいないようだった。だがとりあえずの問題は、指先でつまんだこのパンツだ。ブレイク真っ最中にはほんのお子様だったので、こっ恥《ぱ》ずかしいとしか思えない。 「しかし、ま、日本人だって、伝統的には『ふんどし』なわけだし」 「そうですよ陛下、もしかしたら意外とはきごこち良くて、新しい自分に出会えるかもしれないしね」  出会いたくない。 「それにしてもギュンターは一体どうしたんだろうな。はい、下着の次はこれを。あれ」  学ランによく似た衣服を次々と渡《わた》しながら、コンラッドが顔を近付ける。 「……陛下、なんかいいにおいしますね」 「あ、多分それシャンプーだわ。風呂場にあったピンクのやつ」  誰が置いたのかは、知らないけど。  眞王《しんおう》の晩餐《ばんさん》というのは、便利な裏技を紹介する番組のことでも、元プロ野球の超一流投手がゲストにワインの蘊蓄《うんちく》をたれる番組のことでもない。 「魔王《まおう》陛下と近しい血族の方々だけで囲む、高貴で特別な晩餐のことです」  なぜか鼻の穴に綿をつめこんだギュンターは、妙《みょう》にテンション高く胸を張りながら先導している。髪《かみ》はきっちりと後ろでまとめ、僧衣《そうい》に似た服は、オフホワイトで丈《たけ》が長く、前面に金糸の見事な刺繍《ししゅう》がある。 「失礼、遅《おく》れまして」  大急ぎで着替えに戻っていたコンラッドが、小走りで追いついた。その格好ときたら、本年度のコスプレキングはこの人に決定! というものだった。  アメリカ女性の憧《あこが》れ、純白の海軍士官服。愛と青春の旅立ち、原題はアンオフィサーアンドアジェントルマン、主演リチャード・ギア。誰もが聞いたことのあるあのテーマ曲をBGMに、全米人気ナンバーワンはさわやかに言った。帽子はなしで。 「一応これが正装なんでね」  窓の向こうには山肌《やまはだ》が広がり、その頂点には灯《あか》りが見えた。周囲の空気はすでに暗く、その灯は星より強く瞬《またた》いている。 「ご覧ください、あれが魔族の聖地、眞王|廟《びょう》の灯りです。我等の全ての始まりである、偉大《いだい》なる眞王の眠る場所です」  魔族、なのに聖地? という疑問はおいといて、おれは山頂の揺《ゆ》らめく炎《ほのお》に目をやる。日本でいう寺のようなものだろうか。現代日本人・渋谷有利の眼《め》で見ると、眞王とはこの連中にとって、神のような存在らしい。墓があるということは、おそらくこの世を去っているのだろう。  だが、その眞王のお告げだか言葉だかのせいで、自分はここまで連れてこられた。 「……王かどうかも判《わか》らないってのにさ」 「陛下、こちらもご覧になってください。この廊下《ろうか》は展示室も兼《か》ねておりまして、歴代魔王陛下の御勇姿《ごゆうし》が全て飾《かざ》られているのですよ。先代と先々代は肖像画《しょうぞうが》が未完成なのですが」  延々と続く廊下には、両手を広げても横幅《よこはば》に足りないという大きさの絵画が、二十枚は掛《か》かっていた。どれも写実的で精密で、眼に痛いくらい細かく描《えが》かれている。 「上野にバーンズコレクション来たときみたいだな」 「新しい順に手前から並んでおります。こちらが第二十四代魔王フォンラドフォード・ベルトラン陛下です。国民には獅子《しし》王と呼ばれ敬われました」 「獅子王かぁ。どこの世界も似たようなあだ名を考えるもんだね」 「こちらは第二十三代のフォンカーベルニコフ・ヤノット陛下、厳格王と呼ばれました。そして第二十二代ロベルスキー・アーセニオ陛下、武豪《ぶごう》王として名高かったお方です。第二十一代フォンギレンホール・デュウェイン陛下は好戦王、その前のヘンストリッジ・デイビソン陛下は殺戮《さつりく》王、フォンロシュフォール・バシリオ陛下は残虐《ざんぎゃく》王……」 「なんかだんだんヤバイ呼び方になってこねぇ? もっと気楽な、石油王とか新聞王とかブランド王とかの人はいねーの?」 「さあ……石油も新聞もブランドもないからなぁ」 「第十五代魔王グリーセラ・トランティニアン・ヤッフト陛下、首刈《くびか》り王。第十四代フォンウィンコット・ブリッタニー陛下、流血王……」  魔族の国民性がみえてきたぞ。  椅子《いす》に座って犬の頭に手をやっている人もいれば、地面に突《つ》き立てた剣《けん》に寄り掛かる人もいた。棹立《さおだ》ちになった馬上で、討ち取った敵の生首をかかげる、これこそ魔王という絵もある。三人ほど女性もいたし、中には少年としかいえないような年格好の王もいた。  だが、髪や瞳《ひとみ》の色に相違《そうい》はあるにしても、いずれの人物も美しさではひけをとらず、遡《さかのぼ》って古くなるにつれて、ますます人間|離《ばな》れしてゆくようだった。まあ、基本的に人間ではないということだけど。服装も現在の魔族よりずっとファンタジー色が濃《こ》く、マントや甲冑《かっちゅう》も描かれている。 「昔はRPGみたいなカッコしてたんだな。やっぱ剣と魔法の世界はああでなくちゃ。あんたたちの軍服姿って今風すぎるもん。あ、この人」 「第七代魔王フォンヴォルテール・フォルジア陛下ですね」 「さっきのゴッドファーザー愛のテーマにそっくりじゃん!」 「ゴッド……グウェンダルのことか。彼の先祖にあたる人だから」 「へ!? だったらあいつが次期魔王になるんじゃないの? 先祖が王様なら、子孫の誰かが王様を継《つ》ぐでしょ」  ギュンターは教師面になり、軽く小首を傾《かし》げて言う。 「陛下、魔王の地位は、世襲《せしゅう》で続くものではないのです」 「けど選挙ってわけでもないんだろ? どーも難しいな、どーも納得いかない」 「そりゃあそうだよ、違《ちが》う世界で十五年も育ったんだからさ。ま、おいおい解《わか》ってくるでしょう、一年もいれば魔王らしくなりますって」 「一年!? おれは一年もここに居んの!?」  コンラッドに聞き返すおれを見て、教育係は憮然《ぶぜん》とした。 「陛下はこの国の国王なのですから、今後一生をここで過ごされるに決まっています。一年もとは何というお言葉ですか」  大変なことになってきた。このままでは間違いなく留年してしまう。しかも高一の五月にダブリ決定だなんて、いくらなんでも早すぎる。この上は課せられた使命をとっとと果たして、最短|距離《きょり》でゴールを目指すしかない。 「そしてこちらにあらせられるのが、我等魔族を統一し、創主たちを打ち倒《たお》して眞魔国を確立された、初代国王である眞魔王陛下です。尊き魂《たましい》に栄光あれ」 「はあ、これまたあのガキにそっくりだね。きっとご先祖様なんだろうけど。で、名前は?」 「御名《みな》は濫《みだ》りに口にしてはならないのです」 「名前も言えないのかよ、ちぇ、ケチくせぇ」 「陛下ッ」 「だっておれ、こいつのおかげでこんなとこまで連れてこられちゃって、しかももっと前に遡って言うとー? 死んでるはずのこいつの一言で、おれの魂は異世界に飛ばされちゃったっていうんだろ? なのに名前も教えないなんて、やっぱ、ケチくせ」 「あとで教えるよ、陛下」  コンラッドの声は、笑いを堪《こら》えていた。  一際大きく、正面に設《しつら》えられた肖像画には、金髪《きんぱつ》の青年が抜《ぬ》き身の剣を片手に立っていた。ヴォルフラムに良く似ている。ただし、彼の目は明るく澄《す》んだ湖面のブルーで、後世の魔族とは何かが、どこかが違って見えた。おれの素人《しろうと》感想では「偉《えら》そう、大物、生まれながらにして王様って感じ」だ。 「……この人は?」  この絵だけは、一人ではなかった。少し後ろに下がった場所に、今までの王達とは明らかに異なる人種が描かれている。ごく普通《ふつう》の機能的な服で、剣もなければ鎧《よろい》もない。薄《うす》く微笑《ほほえ》んでいるような口元からして、臣下とか従者とかいった関係ではなさそうだ。 「ちょっと東洋的な顔立ちだね」  彼の説明をするギュンターは、とても誇《ほこ》らしげだった。心からの尊敬と愛情が、彼のことを知らないおれにも伝わってきた。 「双黒《そうこく》の大賢者《だいけんじゃ》、この世で唯一《ゆいいつ》、眞王と対等のお立場にあられるお方です。この方がいらっしゃらなければ、我等魔族は創主たちとの戦いに破れ、土地も国もなく彷徨《さまよ》っていたことでしょう。それ以前にこの世界そのものが、消滅《しょうめつ》していたかもしれませんが」 「要するに、すごい人?」 「その通りです。しかも誰《だれ》より美しい!」 「はあ!?」  どうやら連中の美的感覚は、日本人には計り知れないようだった。どちらかといえば穏《おだ》やかな顔つきの東洋人は、整っているという程度に過ぎない。むしろ彼の外見は、美よりも知性に勝っていた。 「このお方と陛下はとても良く似ていらっしゃいます。民も皆《みな》、陛下の高貴さに絶対性を見いだして、喜び讃《たた》えることでしょう!」  フォンクライスト卿《きょう》、鼻から綿を弾《はじ》きださんばかりだ。あっ待てよ、おまえ鼻血、鼻血でてるじゃん! 「似てねーよ!? どこが!? どこが似てるって!?」 「ほらほら陛下、髪とか目の色が。すごい人に似ちゃったもんだね陛下、カリスマカリスマ」 「黒目黒毛は日本人の優性遺伝なんだって!」  それ以外はどこをとっても、自分にも家族にも似てないって。  恨《うら》むよ、眞王。胸の中でおれは毒突《どくづ》いた。  死んでるはずのあんたのおかげで、おれはどんどん巻き込まれてるんだよ。この上、留年なんてことになったら、霊廟《れいびょう》だかなんだかを荒《あ》らしにいくからなッ。  罰当《ばちあ》たりなことを考えたものだ。すべて自分に跳《は》ね返ってくるとも知らずに。  ギュンターは自分に酔《よ》ったみたいにうっとりと、ロマンチックなことを並べていた。 「眞王は闇《やみ》、賢者は光。彼等は互《たが》いに憧《あこが》れ、焦《こ》がれて、それぞれの色を身体に宿して生まれてきたのです。つまり、闇は光を、光は闇を!」 「放っておこう、長くなるから」  聞き慣れているらしかった。 [#改ページ]           4  これは本当にお食事会なのか?  乳白色の石の円卓《えんたく》に歩み寄りながら、おれは緊張《きんちょう》で手足が強《こわ》ばるのを感じていた。 「晩餐会《ばんさんかい》っていうより、軍事会談に見えるんだけど」  部屋《へや》にいたのは長男と三男で、彼等は二人とも当たり前のように制服姿だった。コンラッドがそうなのだから、その兄弟だって正装といえば軍服だ。だがそれぞれの制服は、デザインは同じだが色が違う。グウェンダルはくすみのないビリジアンで、ヴォルフラムは青の強い紺《こん》だった。部署ごとに色が異なることは多い。陸海空の区別もつけやすい。  盆《ぼん》を持った給仕らしき男が、おれに深々と頭を下げる。だが長男も三男も、シャンパンらしきグラスを手にしたまま、挨拶《あいさつ》のアの字もしてこない。きまずい雰囲気《ふんいき》に耐《た》えられなかったのは、やっぱりおれのほうだった。 「こ、こんばんは」  ヴォルフラムが鼻で笑った。顔のいい人からの軽蔑《けいべつ》は、攻撃《こうげき》力も三割増しだ。コンラッドがにこにこしながら間に入って、グウェンダルの背中に左手を置く。 「陛下、彼は俺《おれ》の兄のフォンヴォルテール卿グウェンダル、それでこっちが」  輝《かがや》く金髪に指を突っ込むと、触《さわ》るな、と振《ふ》り払《はら》われる。 「……弟のフォンビーレフェルト卿ヴォルフラム。二人とも、ついこの間までは殿下《でんか》と呼ばれる立場だったけど、今は閣下。もちろん陛下より数段格下だから、気軽に呼び捨てでかまいませんよ」 「ぼくに触るなッ」  グウェンダルは黙《だま》ったままだったが、若いのはヒステリックにきゃんきゃん騒《さわ》いだ。 「人間の指で触《ふ》れるなと言っているだろう!? ぼくはお前を兄と思ったことなど、一度としてないからなッ」 「はいはい、わかったから飲み物をかけないでくれ。お前たちのと違って生地が白いから、染みになっちゃって大変なんだ」  いかにも慣れているという様子で、次男は自分の兄弟から離れた。美少年、カラマワリだ。 「父親が違うってのは説明しましたよね。俺だけウェラー卿コンラートで、十貴族の一員じゃないのにもお気付きでしょう。俺の父親は素性も知れない旅人で、剣以外には何の取《と》り柄《え》もない人間だったんです」  ヴォルフラムは不愉快《ふゆかい》そうな顔をしていた。グウェンダルは無関心だった。 「じゃあ、ハーフ? あ、ハーフとかダブルとか言わないのか。母親が魔族で、父親が……」 「人間です。薄茶の髪と目で、無一文の」 「そしてとってもいい男だったの」  全員の視線が一斉《いっせい》に入り口に向かう。セクシークィーンが犯罪すれすれの扇情的《せんじょうてき》な格好で微笑んでいた。へそまで届くかという切れ込み、脚線美《きゃくせんび》丸見えのスリット、艶消《つやけ》し素材の黒のタイトなドレス。アクセサリーはひとつもなし、あたし自身が宝石よといわんばかりに。  全裸《ぜんら》の時以上に、フェロモン発散中だ。 「母上!」 「母上!?」  三人のうち誰が叫《さけ》んだにしろ、結局は三人の母親だ。百歳近い人たちの母親が、三十そこそこでいいのだろうか。 「三十……かける五……百五十……百五十歳前後かぁ」  つまり自分はさっき、百五十歳前後のご婦人にときめいてしまったわけだ。年上好みにも程《ほど》がある。  母親はとりあえず、手近な息子《むすこ》に抱《だ》きついた。金の巻毛が優雅《ゆうが》に広がる。 「久しぶりね、コンラート。ちょっと見ない間に父親に似て、ますます男前になったわね」 「母上こそ、いつにもまして麗《うるわ》しい」 「やぁん、そんなこと、他《ほか》の娘《コ》みんなにも言ってるんでしょぉー」  これが母と息子の会話かい。  彼女は次々と息子を抱き締《し》めたが、辛《かろ》うじて親子に見えるのは三男のヴォルフラムのときだけで、長子であるグウェンダルにいたっては、年下だけど落ち着いた彼氏と年上でも甘《あま》え上手《じょうず》の彼女みたいだった。次男にこっそり訊《き》いちゃったほどだ。 「再婚した夫の連れ子とか、そういう?」 「いいえ、俺たち三人とも、確かにあの女性から生まれてます」 「グウェン、あなたまた眉間《みけん》にシワよってるわよ。そんなんじゃ女の子に敬遠されるじゃない。ああ、ヴォルフ! ヴォルフったら、もっと顔をよく見せてちょうだい。あぁら、相変わらずあたくしにそっくり。殿方《とのがた》が放っておかなくてよ」 「……母上、今朝お会いしたばかりです。それに男に好かれても嬉《うれ》しくありません」 「そうなの? 男の子ってそういうものなの? これだから年頃《としごろ》の男の子の気持ちはよく判《わか》んないっていうのよねぇ。ああ、どうしてあたくしには女の子ができなかったのかしら。男の子なんてがさつなばかりで、すぐに母親を疎《うと》んじるんだからっ」 「そんなっ、ぼくは疎んじてなんていませんよ母上!」 「そーぉ? ほんとに?」 「本当ですとも!」  バカ親子だ。  だがクィーンの矛先《ほこさき》は、すぐにおれに向けられる。 「陛下ぁ」 「ひゃあ」  あの魅惑《みわく》的な肉体が、弱冠《じゃっかん》十五歳の平均的高校生に押《お》しつけられる。顔の高さが同じ位置で、キスできそうなくらい近かった。ローズ系の唇《くちびる》が笑みを形づくる。 「湯殿《ゆどの》でお会いしましたわね、あなたが新王陛下でしょう?」 「そ、そうですね」 「こんなに緊張して固くなっちゃって、ほんとに可愛《かわい》らしい方。あなたみたいな方が新王だったらいいなって、あたくしずっと思ってたのよ」 「そうですね」固くなってるのは、あなたのボンキュッボンのファーストボンがおれの胸に当たっているからです。 「ね、ユーリ陛下。ユーリ陛下っておっしゃるんでしょ」 「そうですね」アルタの客みたいな受け答えしてる場合じゃないぞ。 「恋人《こいびと》は、いらして?」 「そこまでです!」 「やぁーん」  妙《みょう》にいろっぽい声を出しつつ、おふくろさんはおれから引き離《はな》された。ギュンターが照れとも怒《いか》りともつかない顔色で割って入る。 「新|魔王《まおう》陛下と恋に落ちるのはおやめください、上王陛下!」 「いやーねぇ、ギュンター。ひがみっぽい未亡人みたいに聞こえてよ」 「恨まれようとも罵《ののし》られようともかまいません。とにかく私は、前魔王陛下が新魔王陛下を愛人に……いえ失礼、恋人にするというような不適切な関係を避《さ》けたいのです」 「前魔王? 誰が? この……彼女が?」  セクシークィーンではなくて、本物の女王だったのか。黒いドレスの麗しき魔族(もしくは魔女)は、微笑《ほほえ》んで白い手を差し出した。 「眞魔国へようこそ、ユーリ陛下。あなたの先代にあたる、フォンシュピッツヴェーグ・ツェツィーリエよ。あたくしが王位を退《しりぞ》くと言ったから、陛下をお呼びすることになったの」 「じゃあおれはあなたのおかげで、うー、いや、えー、フォンシュピッツヴェーグ卿ツェ……えーとツェツィーリア? 違う? リ、エ?」 「ツェリって呼んで。ツェ、リ。お兄さまは考え直すようにっておっしゃるけど、恋愛も自由にできない生活なんてもううんざり!」  ツェリ様、貴女《あなた》のそんな理由のせいでおれは、まだ未成年なのに、魔王になれとかいわれてるんですね。目の前の細い指を握《にぎ》りながらおれは嘆《なげ》いた。ああ、この白魚のような美しい指の持ち主が、あと百年くらい権力に執着《しゅうちゃく》しててくれれば、おれは日本で平凡《へいぼん》な人生を送り、不幸にも女房には先立たれたがその半年後の春の日に、ひとり息子や嫁《よめ》やかわいい孫たちに見守られて、あの世に旅立つことができたのに。待てよ、あの世がここだったらどうしよう。そうすると今現在、おれは死んでいるということに……。 「どうなさったの、陛下?」  明るい家族計画が、走馬灯《そうまとう》のごとく浮《う》かんでは消え、浮かんでは消え。  こういう話がある。  ある国で晩餐会《ばんさんかい》に招かれた客人が、王や貴族の前でガチガチに緊張してしまい、本来なら指を洗うはずのボールの水を、間違《まちが》えて一気に飲んでしまった。周りにいた貴族たちは「マナー知らずめ」と冷笑し、器で優雅に指を洗った。ところがただひとり王女様だけは、涼《すず》しい顔でフィンガーボールの水を飲み干したという。お客に恥《はじ》をかかせないようにと。  ボールといってもアメリカンフットボールの試合ではなくて、おもてなしとはこうあるべきだ! という心あたたまる逸話《いつわ》のことだ。  もしこの水をぜんぶ飲んじゃったら、誰か優しい王女様になってくれるかな。  銀器に注がれた水を見つめながら、おれは密《ひそ》かに溜息《ためいき》をついた。  やめとこ。コンラッドくらいはつきあってくれそうな気もするが、長男と三男は絶望的だ。マダム・ツェリはどっちだか判らないけれど、何も無知を装ってまで、試すことでもないだろうし。  おれは両手の指先を揃《そろ》えて、慎重《しんちょう》に小さめの器に浸《ひた》した。と……。 「ええっ!?」  他《ほか》の連中はボールを両手で持って、中身を一気に飲み干している! しまった、道徳の教科書なんか真面目《まじめ》に読むんじゃなかった。コンラッドは飲まずに給仕に下げさせている。 「薄汚《うすぎたな》さを心得ているらしいな、酒で自らを清めるとは」  隣《となり》に座ったヴォルフラムが悪意の直球勝負できた。ということはあれは酒だったのだ。だったらいいや、どうせアルコールは飲まねーもん。法律|遵守《じゅんしゅ》のためではなく、希望の身長と心肺機能|維持《いじ》のために、おれは禁酒禁煙だった。  ギュンターが円卓《えんたく》から離れたところで、給仕に何事か指示を出す。彼は魔王の近しい血族ではないので、眞王の晩餐の席にはつけない。したがってテーブルを囲むのは五人。席順は若いほうから時計まわり。  新王おれさまユーリ陛下、ヴォルフラム元王太子殿下、コンラート元王太子殿下、グウェンダル元王太子殿下、先代魔王ツェツィーリエ現上王陛下。  そういうわけでもっとも嫌《きら》われているヴォルフラムと、食事をしようにも気もそぞろ、なフェロモン女王に挟《はさ》まれているのだ。ついこの間まで王子様だったのに、いきなり格下げになったのだから、ヴォルフラムがおれを憎《にく》む気持ちもよくわかる。無難に世襲制《せしゅうせい》にしておけば、こんな厄介《やっかい》なことにはならなかったのに。  江戸|切子《きりこ》風のグラスに飲み物(多分また酒)が注がれ、給仕が軽くかがんで、機内食みたいに尋《たず》ねてくる。 「陛下、魚と肉……鳥類と哺乳類《ほにゅうるい》と爬虫類《はちゅうるい》と両棲類《りょうせいるい》の、どちらを」  どちらを、って!? 確か昔ヤクルトに、ワニを食う選手がいた気もするけど、驚《おどろ》いてはいけない、これこそ国による食文化の違いだ。日本だってマムシは国民的人気食だ。マムシったって鰻《うなぎ》のことだけど。 「そっ、それじゃあ育ち盛りなんで、哺乳類を。いや待って、ちょっと待って。今夜の哺乳類はどんないいもんが入ってんの? いきのいい猿とか生まれたての子犬とか、そういうもんじゃありませんよねっ!?」  イメージ映像、中国の食材市場。 「牛です」よかった。 「胃袋《いぶくろ》が八つ、角が五本の最高級品でございます」 「つのが五……もしや遺伝子操作とか、そういう……うう、じゃあ、その牛を」  ハチノス、ミノ、ギノア、ヤン……だめだ、それ以上の胃袋はどうやっても思い出せない。コンソメの色とにおいをしたスープと、前菜らしき皿が運ばれてきた。おれはナイフと、フォークの代わりになるものを手に取った。くもりひとつなく磨《みが》かれた銀の、 「……懐《なつ》かしいなー先割れスプーン。まあ合理的っちゃあ合理的だけど」  小学校の給食じゃ、これ一本で二役だ。スープもオードブルもおまかせだ。 「それで、陛下、陛下はどんな国でお育ちになったの? あたくしたちの世界とは、どういうふうに違うのかしら」  ツェツィーリエ前魔王・現上王陛下が、おれの右手をきゅっと握ってきた。元体育会系モテない男子高校生は、途端《とたん》に体温が二度ばかり上がる。 「どっ、どうっていってモ、特に変わったとこもないつまんない世界デスが。ああでも、この国とはずいぶん違ってるデスよ。魔法を使える人もいないし、もっと科学が進歩してるし……」 「科学! 聞いたことあるわ。魔力や法力を持たない者でも遠くの敵を倒《たお》せる技術でしょう? 人間達の国ではそういう研究をしているらしいの。恐《おそ》ろしいことよね、弓よりもっと遠くまで攻撃《こうげき》できる戦力なんて。そうなったとき人間達は、戦力協定を守るかしら」  三男が冷たい目で母親に言った。 「奴等《やつら》にそんな倫理観《りんりかん》があるとは思えませんね」 「怖《こわ》いこと言わないでちょうだい、ヴォルフラム。そんなことになったら、あたくしたちどうすればいいの」 「簡単なことです。魔術の制御《せいぎょ》をやめればいい。戦力の平等だの公正だのと、譲《ゆず》ってやるから人間どもがつけあがるんです」 「待って待って待って、科学ってそんなことのためにあるんじゃないですようっ! つまり、あの、えーと、面倒《めんどう》な掃除《そうじ》や洗濯《せんたく》を機械がやってくれるようにしたり、畑を耕すのも機械が一気にやってくれたり。要するに人間が楽に生活できるようにですね」  ツェリ様が可愛らしく驚いてみせる。 「掃除や洗濯を面倒だと思ったことはないわ。だって掃除夫や洗濯女の仕事でしょう」  女王様の暮らしがどんなだか、これまで考えてもみなかったよ。 「だっ、だから、その掃除係とか洗濯係の代わりに、機械がですねえ」 「そんなことしたら使用人たちの仕事がなくなってしまわない?」 「そうなったら、その人たちは工場で掃除機や洗濯機を作る仕事をするわけで……」  人間が楽に生活できているのかどうか、よくわからなくなってきた。 「ね、それじゃ陛下、恋愛《れんあい》はどう? 異種間の恋愛とかどうなのかしらぁ。やっぱり障害や反対があると、恋はますます燃え上がるものなの?」  異種間というのが、イマイチつかみきれない。彼女は魔族と人間のことを仄《ほの》めかしているのだろうが、日本人的にはどう変換《へんかん》すればいいのだろうか。国際結婚? それはもうフリーどころか憧《あこが》れだし、かといって人間あんどチンパンジーというのも、滅多《めった》に恋には落ちないし。 「とにかく、とても遠い世界からいらしたのよね。王位を継《つ》いでくださって嬉しいわ。これでやっとお城から離れられる。あたくしずっと昔から、自由恋愛旅行に出るのが夢《ゆめ》だったの」  素敵《すてき》でしょ、と指を握られて、おれはカクカクと首を動かす。 「す、素敵です」  素敵なものが食卓に運ばれてきた。メインディッシュの肉類だ。自分の前には好意的にみればレアだといえないこともないような赤い肉。前女王の前には両棲類の丸……いや、姿焼き。その顔で、カエル喰《く》うのねセクシークィーン。一句|詠《よ》んでみた。 「いきなり王になれなんて言われて、できるかどうかって不安もおありでしょうね。あたくしの時もそうだったの。ある日とつぜん使者がきて、あなたさまの魂《たましい》が次代魔王陛下であらせられることが眞王|言賜《げんし》により明らかとなりましたなぁんて。でもね陛下、そんなに深刻に考えてはだめ。難しいことはすべて周りの者がやってくれるし、あたくしの兄も息子《むすこ》達も、誠心誠意お仕えすると思うわ」 「母上!」  鳥類にナイフを入れていたヴォルフラムが、咎《とが》めるような声で言う。 「ぼくはこいつに仕えるつもりなどありません! この男が新王に値する者かどうかもはっきりしないのに、ぼくには納得できませんねッ」 「あら、じゃああなたが王位を継いでくれるの、ヴォルフ?」  彼は次にポテトらしき白い物体を掬《すく》い、それを皿に置いたままで首を振る。 「とんでもない。ぼくなどより兄上のほうが、はるかにその地位に相応《ふさわ》しい。兄上ならば愚かで卑劣《ひれつ》な人間どもに目にもの見せてくれるでしょう」  続いてワインかそれに似たアルコール類のグラスを手にとる。  コンラッドはその隣で、聞いてないみたいな顔で魚類を口に運んでいる。末っ子にとっての兄上とは、口数の少ない長兄だけらしい。 「そうですよね、グウェンダル」  再び鶏肉《とりにく》にナイフを。食べる順番が決まっているようだ。前女王が、可愛らしく首を傾《かし》げる。 「でもヴォルフラム、眞王のお言葉に背いてたてた王が、どういう結果を招いたか、あなたも知らないわけじゃないでしょ」  どうやら神様的存在のお言葉どおりに行動しないと、恐ろしいことが起こるらしい。では、おれが魔王になるのを断った場合、恐ろしいことに見舞《みま》われるのはこの国や国民の皆さんなのか、それとも新参者のおれ自身なのか。 「当然、陛下もですよ」 「ぅえぇッ!?」  見透《みす》かしたようにコンラッドが答えてしまった。 「なんだよそれー! おれは王様になりたいなんて思ったことも願ったことも頼《たの》んだこともないのに。それじゃほとんど脅迫《きょうはく》じゃん」 「……やはりな」  順番からして次は絶対にポテトにスプーンがいくだろうと、ヴォルフラムを横目でちらちら窺《うかが》っていたおれは、グウェンダルの呟《つぶや》きに思わずそちらを向かされた。彼の短い一言に、侮《あなど》りの響《ひび》きがあったからだ。 「最初から、王になる気などないのだろう」  グウェンダルは、ワイン用にしては頑丈《がんじょう》すぎるグラスを手にしたままで、こちらの席を見もせずに続けた。彼の瞳《ひとみ》の凍《こお》るような青には、小心者の日本人など映っていないのだ。 「双黒《そうこく》だろうが闇《やみ》持つ者だろうが、そんなことはどうでもいい。こいつは魔王になりはしないからな。最初からそんな覚悟《かくご》はないのさ。そうなんだろう、異界の客人?」 「えっ……って、確かに……」  思わず肯定《こうてい》しかけた返事は、コンラッドの言葉に遮《さえぎ》られる。 「この国にいらしてまだ二日だ。陛下ご自身も戸惑《とまど》われている。無礼な憶測《おくそく》の物言いは、些《いささ》か傲慢《ごうまん》に過ぎるんじゃないか、フォンヴォルテール卿《きょう》」 「だがこれは逃《のが》れようもない現実だ。誰《だれ》よりお前が知っていることだろう? 王としての責任を果たす気もない国頭《くにがしら》が、どんなに民の犠牲《ぎせい》を生むか。陛下、もしも私《わたし》の言葉どおりに、王として生きる覚悟をお持ちでないなら、今すぐ元の世界にお戻《もど》りください」  もっとも魔王《まおう》に相応しい容貌《ようぼう》の男は、初めておれに冷たい笑みを向ける。 「魔族の代表として願うよ。民の期待が高まらぬうちに、我々の前から消えてくれ」 「おれだって……」  還《かえ》れるもんなら帰りたいよ、と言いかけたのだが、自分の中のよくわからない何かが喉《のど》につかえて声を止めた。意地とかプライドとか強がりとか、そういう厄介《やっかい》な何からしい。  気を取り直して赤い牛肉に立ち向かう。卓上ではまだ、新魔王バッシングが続いていた。  攻撃側のグウェン、ヴォルフに対し、ツェリ様は中立で、コンラッドが孤軍奮闘《こぐんふんとう》している様子だ。 「そいつが本当に魔王の魂を持つのかどうかは判《わか》らないし、特に確かめたいとも思わない。どのみちすぐに帰る客だ。代理を探すほうが賢明《けんめい》だろう」 「彼は本物だよ、グウェン、本物だ」 「何故《なぜ》そう言い切れる?」  視界にはレアステーキだけだったが、コンラッドが小さく笑うのは見えた。見えた、気がした。彼の背中と後頭部しか知らないときにも、やっぱり笑顔が見えたみたいに。 「俺《おれ》がユーリを間違えるはずがない」  余裕《よゆう》すら感じられる彼の一言に、ヒステリックにヴォルフラムがくってかかる。 「何の証拠《しょうこ》があるっていうんだ!? 言葉が通じるとかそういう適当なことじゃ誤魔化《ごまか》されないからなっ! 髪《かみ》だって染めているのかもしれないし、目だって……色つきの硝子《ガラス》片を被《かぶ》せるとか、姑息《こそく》な方法がいくらでもあるだろう」 「お前を納得させられるような証拠は、あいにく俺には示せないな」 「だったらそんなこと断言するな! だいたい、もし万が一こいつが魔王の魂の持ち主だったとしてもだ、所詮《しょせん》、人間どものあいだに生まれた卑《いや》しい身分の小倅《こせがれ》じゃないか。そんな奴《やつ》に我が国を任せるわけにはいかない。偉大《いだい》なる魔族の歴史に傷がつくッ」 「ヴォルフラム、生まれに身分も卑しいもないよ。それは生きてゆく過程で、自分自身の行動によって決まるものだ。けれどお前がそんなにこだわるなら教えておく。陛下の御魂《みたま》はあちらの世界の魔王陛下に預けられ、そのお方が御《ご》自身の配下から、然《しか》るべき人物をお選びになった。それが陛下の御尊父だから、この世界のものじゃないとはいえ、魔族の血が流れているのは確かなんだ」 「ぅええっ!? まさか、親父《おやじ》が悪魔!?」  悪魔、じゃなくて魔族。日本が記録的大|不況《ふきょう》に陥《おちい》ってからというもの、銀行員は鬼《おに》とも悪魔とも呼ばれた。だがしかし、父親が本当に魔族だったなんて! 息子として今後、どのように接すればいいというのか。 「どんな顔して会えってんだよー、実の親父が魔族だなんて」 「いいんじゃないの、父君にしてみれば、実の息子が魔王なんだから」  次男は涼《すず》しい顔。それもそうだ。そのほうが大変だ。 「けどなんでコンラッド、おれの親父のことまで知って……」 「たとえ父親が魔族だったとしてもだ! 母親はどうせ人間だろうが!」  どうあっても攻撃の手を緩《ゆる》める気はないらしい。ヴォルフラムはぐいっと杯《さかずき》を呷《あお》り、麗《うるわ》しいからこそいっそう険しい眼差《まなざ》しをこちらに向ける。 「お前の身体《からだ》には、半分しか魔族の血が流れていないわけだ。どうりでコンラートと話が合うはずだ、どちらも“もどき”だからな! 残りの半分は汚《けが》らわしい人間の血と肉、どこの馬の骨ともわからない、尻軽《しりがる》な女の血が流れてるんだろう? そんな奴にこの……」  しまった、と思ったときにはもう遅《おそ》かった。後悔《こうかい》はいつも先に立たない。十年間続けた野球をやめることになったのも、このカッとくる短気な性分のせいだ。小市民的な正義感が、どうしても抑《おさ》えきれない一瞬《いっしゅん》がある。捕手《ほしゅ》としては致命的《ちめいてき》な欠点だ。人生的にも非常に不利だ。  おれは目の前の美しい顔に、片道ビンタをくらわせていた。  いいビンタだった。音も良かったし角度も良かった。当たりがよすぎてシングルヒットにはなったが、敵に与《あた》えたダメージは計り知れない。その証拠に、相手は茫然《ぼうぜん》とこちらを見つめている。反撃態勢もとれていない。周囲は水をうったように静まり返り、打たれたヴォルフラムの左|頬《ほお》が赤く染まっている。左頬だけではない。右も、それに額も、白目も……。  コンラッドが椅子《いす》を倒しながら立ち上がる。今度こそ顔色が変わっている。 「陛下っ、取り消して、今すぐ取り消してくださ……」 「やだね!」  ツェリ様が、ゆっくりとナイフを皿に置く。ギュンターがつんのめりながら走ってくる。 「取り消すつもりも謝るつもりもおれにはねーかんなッ! こいつは言っちゃいけないことを言った、やっちゃいけないことをやったんだ! バカにしようが悪口言おうが、おれのことなら構わねぇよ! だけど他人の母親のことをっ、見たことも会ったこともないくせに尻軽とは何だ!? どこの馬の骨とはどういうこった!? 馬の骨と人とで子供が生まれるか!? おれのおふくろは人間だよ、どっからどう見ても人間だよ。お前に言わせりゃ汚らわしい血の流れてる人間だよ! お前ナニサマのつもりだ? 人間が汚らわしいってどーいうこと? お前のおふくろがそういうふうに言われたら、息子としてはどう思う!? ああ、謝んねーかんなっ」  テンパっちゃうといつもこう、ベイスターズなみのマシンガン抗議《こうぎ》。ギュンターを制して、おれは続けた。 「絶対に取り消さない! それでも顔が綺麗《きれい》だから、グーじゃなくてパーで我慢《がまん》したんだぜ」 「絶対に、取り消すつもりはないっておっしゃるのね?」  おれが頷《うなず》くのを確かめてから、ツェリ様は胸の前でぱんと手を叩《たた》いた。 「すてき、求婚成立ねっ」  きゅうこん?  埋《う》めておくとチューリップとか咲《さ》くアレですか。 「ほぉらね、ヴォルフラム、あたくしの言ったとおりでしょ? こんなに美しくなっちゃったら、殿方《とのがた》が放っておかなくてよ、って」  両手の指をくっつけたまま、小躍《こおど》りしそうな喜びようだ。  とのがた、というのは……おれか!? 「陛下はとっても可愛《かわい》らしいから、ちょっと妬《や》ける気もするけど。でもしかたないわ、愛する息子のためですものね」 「ちょっと待って、落ち着いて、いや、誰《だれ》かおれを落ち着かせて。何が起こってるか教えてくれる? またおれどういうマナー違反やっちゃったのか、誰か解《わか》りやすく教えてくれるっ!?」  おれ贔屓《びいき》の教育係は、がっくりと俯《うつむ》いた。あちゃー……という感じだ。 「……作法違反はなさってません。それどころか最近じゃ貴族間でも使われていないような、古式ゆかしく伝統に則《のっと》った方法で、陛下は彼に求婚されたんですよ」 「求婚、というのは、まさか」 「結婚を申し込んだんです」  結婚!? 十八歳になっていないと、異性との婚姻《こんいん》は許されないぞ日本男児。婚約という形なら問題ないが、それ以前にヴォルフラムは、おれと異性関係にはないだろう。 「けけけ、結婚!? 男と男が!? しかもおれから求婚して!? いったいいつ、おれが求婚を」 「相手の左頬を平手で打つのは、貴族間では求婚の行為《こうい》です。そして打たれた者が右頬も差し出せば、願いを受け入れるという返事になる」 「うわぁッ、そんなバカなっ! けっ、けどッ、男同士、おっとこどーしだしぃッ!」 「珍《めずら》しいことではありません」  なんてこった、母親を侮辱《ぶじょく》した男にこっちから求婚!? 咲いたのはチューリップでもヒヤシンスでもなくて、ビッグカップルの恋の花。もしかするとビッグどころか、ロイヤルカップル誕生なのか!?  ギュンターがスンスン泣いている。嬉《うれ》し涙かどうかは考えたくもない。 「へ、陛下っ、このわたくしに何のお言葉もなく、突然の御求婚とはあんまりで……いいえ、喜ぶべきことなのでしょうね。これで陛下も国王として、この国に落ち着いてくださることでしょう……」 「誰か男同士で変だとか言ってくれよーっ!」 「こんな屈辱的なことが許せるものかッ!」  ようやく自分を取り戻《もど》したらしいヴォルフラムが叫《さけ》ぶ。右頬を差し出す様子はない。 「しょーがないだろーッ!? 殴《なぐ》るときはグーパンにしろなんてこと、誰も説明してくんなかったんだからさっ」 「黙《だま》れっ! こんな辱《はずかし》めを受けたのは生まれて初めてだっ」 「へえー、そうなの。そりゃずいぶんと恵まれた人生送ってきたもんだねっ。おれなんかポジションとられた後輩《こうはい》に靴下《くつした》洗っといてって言われたときとか、チーム一の鈍足《どんそく》にスチール決められたときのがよっぽど屈辱的だったね! 八十年も生きてきて、他人の過ちのひとつも許せないなん……」  結婚を申し込まれて興奮したのか、ヴォルフラムは卓上を腕《うで》で払《はら》った。皿やグラスが床《ゆか》に落ち、銀のナイフがおれの足元で跳《は》ねる。 「うわっ、とぉ、あっぶねーなぁ。ごはんに当たるなよ、ごはんにィ」 「陛下、拾っては……」  おれはしゃがんで、鶏肉《とりにく》の脂《あぶら》で少し曇《くも》ったナイフを拾った。 「拾ったな?」  ありゃ?  座ったまま周囲を見回すと、コンラッドとギュンターが途方《とほう》に暮れたような表情でうな垂れていて、落とした本人の美少年は、怒《いか》りにひきつりつつ薄笑《うすわら》いを浮かべていた。 「拾ったな。よし、時刻は明日の正午だ。武器と方法はお前に選ばせてやる。なにしろ戦場に出たこともなければ、馬にさえ満足に乗れない腰抜《こしぬ》けだからな。せめて得意な武具を使って、死ぬ気でぼくに挑《いど》むがいい」 「な、なにを?」 「覚悟しておけ、ずたずたにしてやる」  そこまで言って冷酷《れいこく》に笑うと、彼は母と長兄に食事の途中で席を立つ非礼を詫《わ》びてから出ていってしまった。およそ役に立っていない教育係が、ためいき混じりに肩《かた》を落とす。 「求婚なさったと思えば、すぐさま決闘《けっとう》をお受けになる。陛下、陛下のお気持ちの変わりようには、私、ついてゆけません」 「決闘? を、申し込まれたの? おれが!?」 「故意にナイフを落とすのは、決闘を申し込むという無言の行為で、それを向けられた相手が拾うのは、受けて立つという返事になるのです」 「決闘!? ねえ、じゃあおれもし負けたら、や、多分負けるけど、し、死んじゃうのか!? うっかりたまたま親切にナイフを拾ったくらいで、あいつに撃《う》たれて死んじゃうの!?」  おれの貧相な想像力では、砂埃《すなぼこり》の舞《ま》う西部の荒野《こうや》で十歩進んだら振《ふ》り向いて撃ち合う、マカロニウェスタンの早撃ちガンマンしか浮かんでこなかった。  大丈夫《だいじょうぶ》ですよ、いまどき決闘で命を落とす者は滅多《めった》におりませんからとか、ヴォルフラムが思いつきもしないような奇《き》をてらった武器で相手を驚かすってのはどうだろうとか、いっそのこと可愛らしい着ぐるみであいつの戦意を喪失《そうしつ》させるって手は? とか言い合って、新王陛下を慰《なぐさ》める「おれ派」の二人を眺《なが》めながら、すっかり言葉少なになっていたグウェンダルとツェリ様は、互《たが》いのグラスを空にしてから話し始めた。 「以前から感情を制御《せいぎょ》できない奴ではあったが……まさかここまで直情的だとは」 「そうよねぇ、いくらなんでもいきなり決闘を申し込むとは思わなかったわ」  あの求婚行為がうっかりであることは、冷静になればすぐに気付く。おれはいわゆる異世界育ちで、右も左もわからない帰国子女だ。魔族の、それも貴族限定のしきたりなんて正しく身についているはずがない。 「でも、あの子のせいだけではないのよね」 「どういうことです?」  グウェンが横目で聞き返している。  いやな予感がする。母親がこういう含《ふく》み笑いを見せるときは、だいたい何か隠《かく》してるんだ。 「あのねぇ、うふふ、陛下の髪《かみ》から、あたくしの美香蘭《びこうらん》のかおりがしたの。洗髪水《せんぱつすい》に混ぜたものを、湯殿《ゆどの》に置いたままにしていたのよ。きっと効能もご存じないまま、髪を洗うのに使われたのねっ」 「その、効能というのは」 「薬術師に頼《たの》んで作らせた、魔族にしか効かない貴重なものよ。その香《かお》りをはなつ者に少しでも好意をもっているなら、いっそう情熱的で大胆《だいたん》になるようにって」 「つまり媚薬《びやく》とか、惚《ほ》れ薬とかいうやつですか」 「やぁね、そんなぞんざいな言い方」  好意を持つものはより大胆に。では逆に、もともと悪意を抱《いだ》いている場合は? 僅《わず》かに眉《まゆ》を寄せてグウェンダルは、給仕に酒を注《つ》ぐよう合図する。 「嫌《きら》っていれば、より険悪に……ヴォルフラムが逆上するわけだ。母上、そういうことは早めに教えておいてやるべきなのでは」 「あらどぉしてぇ? ヴォルフは怒《おこ》ってる顔がいちばんかわいいのよー? 自分の息子のかわいらしい様子を見たいと思わない母親がいて?」 「……いいえ」 「そうだわ! あなたもアニシナと二人の時に試してみたらどう?」 「……まだ生命《いのち》が惜《お》しいので……」  ラジオから流れる英語放送みたいに、おれは茫然《ぼうぜん》と会話を聞いていた。  悪意を抱くものはより険悪に。好意を持つものは、より大胆に。  なるほど、それで先程から、ギュンターが目を潤《うる》ませているわけだ。 [#改ページ]           5  おれは泣きそうになっていた。  信じられない、どうしてこんなことになるんだろう。パーで叩《たた》いたら求婚で、ナイフを拾ったら決闘だって!? おれの中の常識では、求婚には赤いバラで決闘には手袋《てぶくろ》なのに。この国の作法を知らなかったばかりに、生と死の岐路《きろ》に立たされてしまった。 「ああああああああ」  ごろんごろん転げ回っても落ちないほど、お城のベッドは広かった。あまりに広すぎて淋《さび》しいくらいだ。女の子がぬいぐるみを持ち込む気持ちが、齢《よわい》十五にして初めてわかった。 「どーする、おれ。この局面をどう切り抜ける!?」  気を静めて、人生においてもっとピンチだったことを思い出そうとする。今よりもっと、危機的|状況《じょうきょう》に陥《おちい》ったときのこと検索《けんさく》中……該当事項《がいとうじこう》なし。 「ねーよこんなにヤバかったことは! 普通《ふつう》ないって! 決闘とか!」  落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着けっ。敵にやられる前に自分自身に痛めつけられてどうする。  さっきギュンターが涙《なみだ》と鼻水で苦しみながら教えてくれた。敵の死を以《もっ》て勝ちとする決まりは、何百年も昔に廃《すた》れているらしい。現在の決闘は単にプライドの問題だけで、命を落とすことは滅多にないと。  そう、滅多に。  例外もあり。  無意識に枕《まくら》を両足で挟《はさ》んで、おれは大声で「どうするっ」と嘆《なげ》いた。お返事みたいなタイミングで、厚い扉《とびら》が叩かれる。 「陛下」 「なに」  コンラッドが、いろいろ抱《かか》えて入ってきた。 「よかった、陛下、まだお休みじゃなかったんだな。足に何を挟んでるんです?」 「あ? ああこれ、なんか落ち着くような気がして。とても眠《ねむ》れそうな気分じゃないからさ」 「でしょうね。だろうと思って持ってきました。さ、陛下、練習練習」 「練習ぅ?」  渡《わた》されたのは革の盆《ぼん》と棒で、盆は裏を握《にぎ》ると盾《たて》になり、棒は鞘《さや》から引き抜くと訓練用の剣《けん》になった。 「利《き》き腕《うで》に剣を持ってください、そうこれは片手剣なので、左には軽めの盾を持つんです。振ってみて。どうですか? 重すぎて持ち上がらなかったら言ってください。これでも女性用のなるべく短いのを、慎重《しんちょう》に選んだつもりですが」  片手で振り回すには少々重かった。鈍《にぶ》い銀色のシンプルな武器は、柄《つか》の部分を握った感じが、持ち慣れた道具によく似ていた。 「グリップ部分がバットみたいだな、これ。でも重さは金属バットどころか、プロ仕様の木製なみだけど」 「なるほどね、気が付きませんでしたよ。バットか、そうかもしれないな」  もう随分《ずいぶん》長いこと野球をやっていない。ボールもバットもマスクもミットも、もう随分長いこと触《さわ》っていなかった。 「なっつかしいなぁ、この握り具合。もうすぐ一年になるもんな」 「どうして辞めちゃったんですか」 「ええ?」 「野球」  腕組みをして訊《き》いてくる顔には、どこか楽しげな笑みがあった。おれは剣を膝《ひざ》に置いて、そのまま仰向《あおむ》けにベッドに倒れる。  懐《なつ》かしい記憶《きおく》。今となっては腹も立たない、けれど微《かす》かに胸の痛む記憶だ。 「……さっきみたいにカッときて、監督《かんとく》殴《なぐ》って即効《そっこう》クビ」 「それはチームを辞めた理由だろ? 俺が訊きたいのはチームじゃなくて、野球をやめた理由だよ」 「野球をやめたのは……なんでだろ。自分でもはっきりとは説明できないな」 「じゃあ、まだ、やめてないんじゃないの?」 「はあ?」 「引退してないんじゃないかってこと」  サンタクロースかマジシャンみたいに、コンラッドは掌《てのひら》に丸いものを出した。使い込まれて黄ばんだ革に、擦《す》り切れかかった赤い縫《ぬ》い目。 「ボールだ! おいおい、すげぇ大発見! この国の硬球《こうきゅう》って日本と超《ちょう》そっくりじゃん!」 「軽ーくやってみましょうか? 投げ心地も同じか確かめるために」  中庭は四方を建物に囲まれていて、全《すべ》ての窓からやわらかい光が降り注いでいた。空には月があり、地上には明々と燃える松明《たいまつ》が、黄色い半円を描《えが》いている。  観客は、要所に立つ哨兵《しょうへい》だけ。けれど。 「ナイターみたいだ」 「ナイター? ああ、ナイトゲームのこと」 「この国にもナイトゲームなんて言葉あんの? どっかで夜に野球すんの?」 「しないな。ていうよりベースボール人口が極端《きょくたん》に少ないっていうか……俺《おれ》と子供たちだけしか興味がないっていうか……」  コンラッドに渡されたのは、彼の私物だというグラブだった。案の定、グラブだ。ミットではなく。ま、しょうがないかと呟《つぶや》きながら、人差し指を外側にして、茶色く固い革を握ってみる。やや型式が古いとはいえ、ほとんど新品の内野手用だ。おれはゼットの心の師匠《ししょう》モデル愛用だけど、これはミズノでもデサントでもなかった。もちろん世界が違《ちが》うんだから、知ってるブランドのはずがない。だがこの見慣れたブーメランマークは……。 「……ナイキ……まさか」  十メートル以上|離《はな》れたところから、コンラッドが大きく手を振《ふ》っている。 「陛下、軽くいきますよ」  顔の斜《なな》め上にかかげたグラブに、パチンと硬《かた》いボールが入ってきた。革と革がぶつかり擦《こす》れる独特の感触《かんしょく》。掌の中心に集まってきた衝撃《しょうげき》が、うずくようにゆっくりと肘《ひじ》まで伝わる。 「硬球だぁ」  そりゃそうだ。でも感動的。今までずっと軟式《なんしき》だったから。  右手に握りなおした硬球は、案外なめらかで引《ひ》っ掛《か》かりがなかった。よく見ると今にも消えそうな線で、文字らしき何かが書いてある。魔族《まぞく》の字が読めないのは当たり前だけど、ボールにお名前入りなんて、外見に似合わず子供っぽい。ゆっくりと腕を後方に引き、軽いスナップで返球する。思ったより距離《きょり》がなかったので、相手のグラブはいい音をたてた。  昼夜の寒暖の差が大きくて、春だというのに息が白くなる。フィールド・オブ・ドリームスのワンシーンみたいに、ウォームアップを念入りに続けてから、おれはコンラッドの顔色をうかがい、楽しんでいるのを確かめてから言ってみた。 「ちょっと座ってみようかな」 「座るって?」 「そうだな、えーと、あと六歩離れて。よーしいいぞ、そっからここめがけて投げてみな」 「遠いですよー、陛下ー」 「いーんだよもう高校生なんだからっ! ほらど真ん中、直球こいよ!」  腰《こし》を落として、足の裏の一部に力を入れる。来たボールは強烈《きょうれつ》なワンバウンドで、膝《ひざ》をついて両足の間で捕球する。とんでもないフォームから投げられたにしては、重さもスピードもなかなかだ。 「だーれに教わったんだよそんな投げ方ッ」  おれは走っていってボールを突《つ》き返し、彼の指の位置からしていい加減なことに驚《おどろ》いた。 「こんなんであれだけスピードがでりゃたいしたもんだよ。それにしても一体どこで、だれにこんなデタラメ教えられたんだ」 「誰にも教えてもらってないよ。勝手に野球の試合を観《み》て、自分でこんな感じかなって覚えたんだ。握り方とか詳《くわ》しい投げ方は、遠くから観ただけじゃ解らないんで」 「試合があるってことは練習もあるんだろ? だったら指導者もいて生徒もいるんだろ。いいか、ボールは三本指でこう持つの、基本は縫い目に指を乗せるの」 「なるほど……え、これで強い球が放れるもんなんですか」 「当たり前だろー!? そんなしっかり握っちゃったら、手から離れなくて大変じゃん。試合ってさぁ、どこでやんの? この国にもやっぱスタジアムとかあんの? 金曜の夜の国民の娯楽《ごらく》は、ビールとナイターとジャイアンツだったりすんの?」 「ジャイアンツはナ・リーグなのであまりよく知らないんですが……でも陛下、この国に野球はないんですよ。俺が試合って言ったのは、我が国のことではありません」  いい加減な生返事を口にしながら、おれは脇《わき》にグラブを挟み、コンラッドの手を握って説明していた。ほら、これがフォーシーム、縫い目と交差するとホップ気味になるから。この世界の野球事情を聞くよりも、教えることに熱中していた。 「ワインドアップで体重移動してる? でないと軸足《じくあし》がしっかり着かないぜ。この時も目線は目標を見たまま、おれのミットから逸《そ》らさないこと。で、ストライドが短いのは本人が回数投げて、一番いいところみつけないと。フォロースルーは妙《みょう》に大きいけど……」  言っているうちに、なんだか嬉《うれ》しくなった。相手の指や肩《かた》を掴《つか》んで、言葉どおりに動かしていると、子供の頃《ころ》の自分が甦《よみがえ》り、胸があたたかくなってきた。 「……こんなだったのかなあ」 「何がです?」 「こんなだったのかなぁと思って。おれが教えてもらったときも。十歳かそこらの頃なんだけど、プロ選手が来てくれる一日野球教室なんてのがあってさ。当時泣く泣くキャッチャーをやってたおれは、親父《おやじ》のコネだか抽選《ちゅうせん》だかで、その会場に紛《まぎ》れ込んだの」  特に身体《からだ》が大きいわけでも、精神的にしっかりしているわけでもなかった。単に父親の一言で、ポジションを決められた小学生は、向かってくる速球も怖《こわ》かったし、突っ込んでくる走者も怖かった。ちゃんとマスクはあるんだけど、やっぱり顔の前にくると怖いんです。捕手にしてはスラリとしたプロ選手に、おれはうなだれてそう打ち明けた。 「怖いなんて言ったらさ、適性がないんじゃないかってことになりそうだろ? けどその人はおれをしゃがませてね、自分もおれの後ろに座って、こう、なんていうか抱え込むみたいにして、手を持ってミットの位置を決めてくれてから、近くにいた投手を呼んだんだ」  百八十センチ以上あるプロの投手が、大きく振《ふ》りかぶって足を上げ、青のグラブの中で握られたボールは、長い指で宙に押《お》し出された。いま考えてみれば山なりの超スローボールだったに違いない。けれど新品の真白《ましろ》い軟球が、自分のミットに飛び込んだあとも、おれは瞬《またた》きするのも忘れて、その場に座ったままだった。 「で、おれの肩ごしに、師匠は訊いたね。怖かったか、って。けどこれでもうおれは……」 『きみはもうプロの球も捕《と》れるようになった。それでもまだジュニアの選手が怖いのか?』  おれはコンラッドの手の中を見ながら、あの日の風を思い出した。まだ屋根がなかった。陽光が直接キャップに当たった。 「……忘れられないんだよなー、あの感触が」 「師匠って人のぬくもりが?」 「ぬくもりじゃねーよぬくもりじゃ! それにおれが勝手にココロの師匠にしてるだけだし、その一回っきり喋《しゃべ》ったこともないのっ、運悪くサインももらえなかったの!」 「けど陛下はその……師匠のチームのファンなんだ」 「あったり前だろー!? 携帯の着信も一時期は球団歌だったし、中継《ちゅうけい》は必ず最後まで見るし、土日はFMでチェックするし、ファンクラブ入って球場にも行くし。記事のスクラップなんか今年で四年目だし、保存ビデオも増えちゃって増えちゃって……あんたはどこのファンなの? こっちではチーム名とかどうなってんだろ」  コンラッドが、意味ありげな表情で腕を組んだ。 「ボストン・レッドソックス」 「レッドソックス!? 大家! オレラーノ、ウォルコットクラークローズ、近鉄のほう!」 「誰です? 知らないな」 「だってパで……おれの世界で活躍《かつやく》してるレッドソックス出身者だもん。なんだ、こっちの世界にも同じチーム名があるんだなぁ、そーいうのもアリかもね、タイガースだってジャイアンツだって日本とアメリカ両方にあるんだもんな、日米野球なんか混乱するよな、カブス対ジャイアンツなんて、国籍《こくせき》ぜんぜん違うのに……」 「ジャイアンツ、ナショナルリーグですからね」 「リーグ名まで一緒《いっしょ》なの? それにボストンって地名まで……そんなはずないよな……」  考えてみれば、この男は妙だ。自分と話が合いすぎる。おれはボールを掴んだままで、まじまじとコンラッドの顔を見た。指は無意識に危険な握りになっていて、人差し指がひきつった。 「ギュンターには全然通じないことを、あんたはけっこう知ってるよな。メリーゴーランドとか、おれの親父のこととか……そのうえレッドソックスってのは……どういうことだ? さっき、この国のことじゃないって言ったよな。じゃあどこだ? この世界のどこの国が、どこの人間社会が野球好きなんだ? どこにボストン・レッドソックスがある?」  そんなはずが。 「地球、アメリカ、マサチューセッツ以外のどこに!?」  そんなはずがない。  コンラッドはグラブのまま両手を広げ、首を振ってNOの意志表示をした。 「どこにもない。地球、アメリカ、マサチューセッツ以外のどこにも」 「じゃあ、何で」 「行ったからです」 「行ったって、どこに、誰が」 「俺がボストンに、行ったからです」  ボストンに? 「ボストンだけじゃない、色々な所に行きました。ワシントン、スタッテン島、ニューハンプシャー、オーランド、ケベック、エジンバラ、ウェールズ、デュッセルドルフ、シェルブール。陛下の魂《たましい》を大切にお護りしながら、あなたの育った世界に行ったんです」  地球の歩き方、異世界からのお客さん編。 「十七年前、前世の傷をすべて癒《いや》して、真っ白になった陛下の魂《たましい》をお護りしながら、俺はあなたの生まれた場所、アメリカ合衆国に行ったんです。そこでベースボールの楽しさを知って、未来の魔王が無事に生まれるのを見届けてから帰ってきた。陛下の母上はそれはもう気丈《きじょう》な方で、今にも生まれそうだってのに、タクシーの運転手を怒鳴《どな》りつけてました」 「まさか……まさか相乗りの名付親!?」 「採用されちゃうとは思いもしなかったもんで……」  じゃ、十五年間からかわれ続けた渋谷有利原宿不利は、二十%くらいは彼のせいだったのか。残りの大半は漢字を決めた両親のせい。 「その話が本当だとすると、おれは母親の腹の中にいた時に、あんたと接触《せっしょく》してるわけ?」 「そういうことになりますね」  こんな奇妙《きみょう》な話が、あっていいものだろうか。十五年前に母親が会ったのと然《さ》して変わらないような年格好で、おれの因縁《いんねん》の名付親が、すぐ目の前で笑っている。おれのこと陛下なんて呼んでいる。 「十五年間ずっと待ってたんだ」  彼はグラブを外して脇に挟《はさ》み、おれの手をボールと一緒に包み込んだ。 「直接、陛下とお会いできる日を」  おれの左脳の会話ストックの中では、その節はどうもとか母に成り代わってお礼申し上げますとか、そういうオーソドックスな候補が用意されていたのだが、彼のとても人間っぽい表情を前にしたら、どう抗《あらが》っても右脳が勝って、もう他に言葉がなくなってしまった。 「……陛下なんて、呼ぶなよ、名付親のくせに」 「ユーリ」  だってそうだろ、あんたがつけた名前なんだからさっ! それでもまだ照れを隠《かく》すために、おれは裏返った声で続けなければならなかった。ちょっとじんときちゃってたから。柄《がら》にもなく感動なんかしかけてたから。 「それにっ、生き別れの兄弟みたいな言い方すんなよっ! 実質的には昨日が初対面なんだからっ。あんたはおれの名前を知ってたかもしれないけど、おれの方は相乗りの人としか聞かされてなかったんだから。まあその時、荷物かなんかに名前でも書いてあれば、おふくろも覚えておけたかもしれないけどさっ、ほらこの」  握ったボールを突《つ》き付ける。 「所有者ネーム入りベースボールグッズみたいになっ」 「……それは俺の名前じゃないよ」  なに? 「グラブは持ち帰ろうとして自分で買ったものだけど、ボールは球場で貰《もら》ったんです。別に頼《たの》んだわけじゃないけど、遠征《えんせい》で来てた敵チームの若手が、サインしてやろうかってぱっと取ってサッと……」 「なななななんだよお前っ、偉大《いだい》なるメジャーリーガーのサインボールで、おれとキャッチボールしてたのか!? 誰、誰のサイン!?」  消えそうな文字は、英語と教えられても判読できない。メジャーの神様[#「神様」に傍点]だったらどうしよう。 「なんですか、そいつは陛下よりも偉いんですか」 「ああああたりまえだろーッ!? 三年間補欠だったおれなんか甲子園めざすのも気が引けるってのに、その甲子園どころか、プロの選手でさえかなわないような……なあ、この世界にはまだ野球があんまり広まってないんだよな」 「あんまり、どころか、俺と子供たちくらいしか」 「てことは、今現在、おれがだんとつトッププレーヤー? 試合で間違《まちが》いなくスタメン起用? 眞魔国のイチローとか呼ばれるのおれ? でもおれポジション、キャッチャーだから、あっもうどうしようポスト伊東なんて言われちゃったらッ」 「それどころじゃないですよ、陛下の場合、確実に選手|兼《けん》コーチ兼|監督《かんとく》兼|審判《しんぱん》兼、オーナーということに。国営チームということは、やっぱり国王がオーナーですからね」 「国王か! 国王ねぇ、だったら魔王もいいかもなー」  コンラッドは真っすぐに視線をあわせて、薄茶《うすちゃ》の瞳を細めて言った。 「よかった、陛下。少しでもお気持ちが晴れて」  気持ちは晴れないよコンラッド。でもなんか、何か浮かびそうで浮かんでこない。 「ええっ、てことはおれが国王なんだから、野球を国技にするってのはどう? 渋谷有利記念スタジアムとか造ってさぁ、第一回渋谷|杯《はい》争奪《そうだつ》トーナメントとかやっちゃうの!」  脳味噌《のうみそ》を何かが横切った。 [#改ページ]           6  横切ったのは鳥だった。  環境汚染《かんきょうおせん》されていない朝の空気を思い切り吸おうと、部屋《へや》の窓を開けたとき、サファイアブルーの羽とオレンジ色の長い尾《お》を持つ鳥が、バルコニーのすぐそばを横切った。美しい姿と、「エンギワルー!」いやな鳴き声。  朝食は各自でとってもいいらしく、部屋に運ばれてきたパンやチーズを、おれは非常識なくらい腹に詰《つ》め込んだ。体育会系の食事なんて、ここだけのはなし質より量だ。最高級素材のモルトブロートより、百円の菓子パン食い放題に惹《ひ》かれる。だから昨夜のレアステーキなんか、燃料の足しにもなりゃしない。  主食だけでも三人前はたいらげたあたりで、ギュンターがげっそりとした顔で現われた。髪《かみ》も服も彼らしくきっちりしているが、赤くなった目の下にはくまができている。四杯目の牛乳に紅茶を入れながら、おれは、おはようと右手を上げた。 「おはようございます陛下。ご機嫌《きげん》がうるわしいようで、何よりです」 「あんたはご機嫌うるわしくなさそうだね。ろくに寝《ね》てないって顔してるよ」 「はい、本日の……決闘《けっとう》のことを考えておりましたら、よい案も浮《う》かばぬままに夜が明けてしまいました……」 「そいつに関しては、おれもちょっと考えたよ」  一生|懸命《けんめい》考えた結果、もうこれ以外にないでしょうという作戦に辿《たど》り着いたのだ。これで負けたら勝てる種目はない、いわばおれにとっての最終兵器だ。 「コンラッド起きてっかな、借りたいもんがあるんだけど」 「今朝早くに、調達するものがあるとかで街に出掛《でか》けましたが、正午までには戻《もど》るでしょう。それより陛下、どうなさるおつもりですか? ヴォルフラムは兄二人よりは華奢《きゃしゃ》ですが、ああ見えてなかなか剣《けん》も立ちます。炎術《えんじゅつ》においては母方の血を引いて、この国でも有数の使い手です。迂闊《うかつ》な方法で挑《いど》まれては……」  当事者以上に沈痛《ちんつう》な声で、ギュンターは言葉をつまらせた。 「そんなに深刻な顔されてもなぁ。だって昨日、滅多《めった》に死なないって言ってたじゃん」 「申しました、確かに、申しましたが……」 「おれだってどう考えてもかなわないような、剣とか魔法《まほう》で勝負する気はないよ。そこら辺は戦術、戦術っ。相手の裏をかかないとさ」 「では一体、どのような武具で……」  あっというまに太陽が真上にきて、正午を報せる管楽器が鳴った。これを機に時刻を合わせようかと、アナログGショックをいじってみる。しばらくそうやって時間をつぶしてから、急《せ》かすギュンターを従えて部屋を出た。街から戻ったコンラッドには、入り用なものを借りてある。  約束どおり中庭に出ると、哨兵《しょうへい》は最小限に減らされて、プライベートな勝負の様子が漏《も》れないようにと、中央に面した窓も閉められていた。特等席のバルコニーにはツェリ様が陣取《じんど》り、おれを見つけてにこやかに手を振《ふ》った。グウェンダルは腕《うで》を組んで壁《かべ》に寄り掛かり、決闘の相手であるヴォルフラムは、椅子《いす》に座ってふんぞり返っている。  神経質な奴《やつ》だから、なかなか姿を現わさない敵に、かなりイライラしているはず。その苛立《いらだ》ちで集中力が乱れるという「待ちかねたぞ武蔵」大作戦。かなりせこい。 「お前がぼくに打ち据《す》えられて、泣きながら許しを乞《こ》う姿を想像してみた。そう考えると待ち時間も楽しいものだな」  なんかあんまり苛立っていない。宮本武蔵作戦、大失敗。 「おれが負けるって決まったわけじゃないだろ? 十五年間|眠《ねむ》ってた格闘センスが、これをきっかけに目覚めるかもしれないじゃん」  自分が苛立ってどうする。落ち着け、落ち着け。  蝋《ろう》で石畳《いしだたみ》の部分にぐるりと円を描《えが》き、おれはその外側で準備を始めた。ヴォルフラムの顔色が変わる。 「なぜ服を脱《ぬ》ぐっ!?」 「なに言ってんだよ、お前も脱げ」 「ぼくが!?」 「そうだ。相撲《すもう》は『はだか』がユニフォームだからなッ」  そのためにコンラッドから新しい下着を借りたのだ。庶民《しょみん》はトランクス型を穿《は》いているが、金持ちや貴族の間では、例のヒモパン着用がステイタスとされているらしい。バリバリ貴族のヴォルフラムなら、ほぼ確実にヒモパン派だろう。彼の下着姿が見たいわけではないが、あんな脱げやすそうな構造だ、もしかしたら取り組み中に外れるかもしれない。そうなってしまえばこっちのものだ。土俵《どひょう》上で脱げたら即座《そくざ》に負け。そういうルールがちゃんとある。 「相撲とは、男と男がまわし[#「まわし」に傍点]いっちょでぶつかり合う超《ちょう》重量級格闘技だ。その土俵から一歩でも出るか、足の裏以外が地についたほうが負けとなる。由緒《ゆいしょ》正しい伝統的なスポーツだ!」 「マワシ? ドヒョウ?」  ユーリ陣営のギュンターまでが困惑顔《こんわくがお》。コンラッドだけが「ああ、ジャパニーズスモウレスリングね」と納得している。アメリカで少々かじってきたのだろう。 「ほら早く脱げよ」 「男と男が、は、は、は、裸《はだか》でぶつかり合うだとぉッ!?」 「そう。弾《はず》む肉体、飛び散る汗《あせ》」 「ふざけるなッ! そんな野蛮《やばん》で淫《みだ》らな競技をぼくに挑むというのか!?」 「みだら!? 失礼なこと言うなよっ、日本の国技だぜ? 殺し合いよりずっといいだろ」  ツェリ様がバルコニーで大きく手を振る。 「あたくしはぁ、その競技ィ、だーいすきーィ」  熱烈《ねつれつ》な投げキッス。 「……しょーがねーな、じゃあ服は着たままでいいよ。早く円の中に入れよ」  だったら普通《ふつう》の拳闘《けんとう》と同じだと思ったのか、ヴォルフラムは偉《えら》そうに土俵入りしてくる。ひとりだけ雲龍型《うんりゅうがた》とかを披露《ひろう》するわけにもいかず、おれも上着を脱いだだけで線を越えた。 「みあってはっけよいとか説明してもわかんないだろうし……じゃあさっきのラッパを始めの合図にするか。いいな、一回きり、ガチンコだかんな、ヴォルフラム……さん」  どこまでも弱気。呼び捨てにさえできないおれ。  急遽《きゅうきょ》、望楼《ぼうろう》に指示が行き、高らかな「開始」が告げられる。  最初から低い姿勢で構えたおれの方が出足が早く、虚《きょ》を突《つ》かれたヴォルフラムの腰にぶちかまし。廻《まわ》しの代わりにベルトを掴《つか》む。勝負は一瞬《いっしゅん》でついた。四つに組む間もなかった。 「うりゃ」 「……っ」  足を払《はら》ったつもりもないのに、敵が仰向《あおむ》けに転がっていた。 「……あれ?」  何が起こったか理解できずに、口を半開きにしたままで間抜けに転がる美少年、真上には青空。一昨日のおれも、こんな感じだったのだろうか、気の毒に。憎《にく》しみも敵意もどこかに忘れて放心状態のヴォルフラムは、魔族のエリートというよりも、悪魔に騙《だま》された天使みたいだ。などと同情してはいられない。ゆっくりと実感がわいてくる。もしかして、おれ、勝った? 相撲のルールは足の裏以外の身体の一部が……一部どころか転がっている。 「っしゃぁッ! おれ勝ったんだろ!? 勝ったんだよな!」  軍配に尋《たず》ねれば、YOU WIN。 「勝ったぞ勝ったぞ勝ったぞ勝ったぞーっ! うぷ」 「陛下ッ! ご立派な戦いぶりでございましたッ」  早くも涙《なみだ》ぐむギュンターが、冷静さを失って勢いよく抱《だ》きついてきた。 「てゆーかおれの戦略勝ち! アタマアタマアタマ、ここ使わないと」 「双方《そうほう》ともに一滴《いってき》の血も流さない、陛下の慈悲《じひ》深さゆえに生まれたこの決闘は、我々魔族の美談中の美談として、後の世まで語り継《つ》がれることでしょう」 「美談っつーより笑い話として、語りぐさになりそうな気はするなぁ」 「これでことがおさまれば、いいんだけど」  一人だけ冷めた様子のコンラッドは、転がったままの弟に手を差しだしながら呟《つぶや》いた。みるみるうちに白い肌《はだ》が朱《しゅ》に染まり、敗者は兄の手を払う。 「こんなバカな勝負があるか!」 「ヴォルフラム」 「異界の競技で勝敗が決められてたまるか!」  少しでも同情して損をした。彼はまったく懲りていない。屈辱《くつじょく》感は怒《いか》りに油を注ぎ、敗北の事実さえ燃やして消してしまったようだ。 「いいか、お前! お前はこの国の王になるつもりなんだろう!? だったらこの国の方法で勝負をしろ! 魔王なら魔王らしく、魔族の決闘で勝負しろと言っているんだ!」 「ちょっと待てよ、おれの好きな方法でいいって、そっちが先に言ったんだろ。それを自分が負けたからってなんだよ。往生際が悪いだろ。そーいうの男らしくないんじゃねえ?」 「うるさい! 誰か、ぼくの剣を持て」  兵の一人が走ってくる。おれは大慌《おおあわ》てで、声まで裏返った。 「おいおいおい待て、ちょっと待て、まじで待てよっ、そんな本物の刀つかったら死んじゃうだろ!? 負けたからって本気になるなよ」 「ではお前は今のくだらない勝負、本気ではなかったというのか」 「くだらない言うなーッ」  だんだん夫婦漫才《めおとまんざい》めいてきた。ギュンターが仲裁してくれようとする。 「ヴォルフラム、あなたから提示した条件ではありませんか。これ以上の身勝手な要求は私としても聞き流すわけにはいきませんよ」 「ではどうする? そいつの代わりにお前が勝負を受けるのか。新魔王を名乗る男は、一対一の勝負に部下の力を借りるというのだな?」  口の減らない野郎だと思いながらも、おれは感情とは別の部分で、今までしたこともないような、奇妙《きみょう》な計算を始めていた。こんな知恵がどこからわいてきたのかも、頭の、脳味噌《のうみそ》の右と左のどちらで考えているのかもわからない。ただいつのまにか周囲を見る眼《め》が……いや、変化していることさえ、自分自身はっきりと意識できていなかった。決闘中の相手から目を離《はな》さずに、おれは横にいるコンラッドに尋ねる。 「もしもおれが魔王になったとして、あ、万一の話だよ万一の。そうなったとしたら、あいつは味方になるんだよなぁ」 「もちろんです」  コンラッドは深く頷《うなず》く。弟だからというだけではない。 「あいつって、どういうやつ? おれを憎《にく》んで逆恨《さかうら》みして、そういう理由で裏切るやつ?」 「いいえ」 「じゃあ大きな目標のためなら、嫌《きら》いな奴《やつ》とでも組めるタイプ?」 「ヴォルフラムに関して申し上げるならば、どんなに嫌いな相手であっても、それが魔族のためになるなら、最終的には妥協《だきょう》すると思います。あいつは魔族であることに誇《ほこ》りを持ってる。そして魔族がこの世界の頂点に立ち続けることを望んでる。そのためになると認めれば、嫌いな相手にでも従うでしょう」 「なるほど」 「もうひとついいですか、グウェンのことです。彼はこの国を誰《だれ》より愛してる。俺《おれ》なんかよりも、ずっと真剣《しんけん》に。ただし彼の愛情と献身は、魔族と眞魔国にしか向けられていない」  疼《うず》く傷を抑《おさ》えるような。 「……それが問題なんです」  彼の言葉を信じるならば、ヴォルフラムは味方だ。今は紅白戦で敵対していても、いずれは同じチームになる。計算と感情が一致《いっち》した。 「わかったよ、練習用の剣に換《か》えてくれ。やんなきゃあいつの気が済まないなら、さっさと片付けるしかないよな」  傷つけられたプライドは、真剣勝負でしか戻らない。 「正直、剣道|素人《しろうと》だから勝てっこないよ。でも今度おれが負けたとしても、一勝一敗で引き分けだろ。もともと勝ち目のない勝負だったんだから、おれとしちゃイーブンで上出来じゃないの?」  引き分けで停戦できるのなら、チーム内で諍《いさか》うことはない。 「こうなるだろうと思った」  コンラッドは壁に立て掛けてあった剣と盾《たて》をとり、おれに渡《わた》してからギュンターを呼んだ。その頃《ころ》には年長者も巧《たく》みな言葉で、向こうの武器を訓練用に代えさせていた。 「陛下、ご安心ください。巨大《きょだい》で強力には見えますが、刃《は》はなく斬《き》れることもございません。頭部に当たれば陥没《かんぼつ》する程度で、心臓をえぐったりはできません」 「頭蓋骨《ずがいこつ》陥没ってだけで、かなり天国に近くなると思う……」  服のボタンを二個くらい外して、コンラッドが首に掛けていた革紐《かわひも》を引っ張った。五百円玉と同サイズの、銀の縁取りと丸い石。 「陛下、これ」  空より濃《こ》くて強い青。 「ライオンズブルーだね」 「俺の……友人がくれたものです。ある種のお守りだと聞いていたけど、今朝がた街で尋ねたら、これはもともと魔石なので、魔力のある者にしか効果がないらしい。運でも防御《ぼうぎょ》でも攻撃《こうげき》でも、何かの役に立てばいいけど」 「くれるの?」 「ええ」  わざとらしい咳払《せきばら》いで教育係が割り込む。 「お収めになるときは御注意下さい。陛下にその気がおありでないとしても、捧《ささ》げ物《もの》を受け取るという行為《こうい》は、その者の忠誠をも受け入れるということです。私やコンラートはかまいませんが、知らないところで忠臣をお増やしにならないように」 「迂闊《うかつ》に物をもらうなって? なんだよ選挙みたいだな」  胸にかけると、石の部分がわずかに暖かい。霊験《れいげん》あらたかというよりは、前の人の体温の残る便器に座っちゃったような感触《かんしょく》だ。おれは昨夜、生まれて初めて触《さわ》った剣を右手に盾を左手に、灰色の硬《かた》い土に立ち上がった。  ヴォルフラムは盾を持たず両手剣をかかげ、バッターボックスのイチローみたいにこっちを狙《ねら》っている。 「あれほんとに訓練用なんだろうな……」  剣というより、ものすごく活《い》きのいい太刀魚《たちうお》だった。それか冷凍《れいとう》の新巻鮭《あらまきざけ》。あんなものを振り回されたら衝撃《しょうげき》だけで場外ホームランだ。やる前から腰が引けてきた。 「な、なるべく早くギブアップするつもりだけど、もしおれが一撃でやられちゃって口きけそうになかったら、さっさとタオル投げちゃってくれ」 「ギブってなんですか? タオルってなんですか」  コンラッドがにわかアメリカ人風に答える。 「OK、ユーリ」 「準備はできたか、異世界人!」  勝手にあっちにやっといて、そんな呼び方はないだろう。 「おれの名前は渋谷有利。よかったらサマをつけてくれてかまわないぜ」 「ふざけるなッ」  勝負はいきなり始まった。走ってきたヴォルフラムが大きく振りかぶり、おれめがけて新巻鮭を打ち降ろす。一瞬の反射でおれは真下に移動し、身体の中央に盾をかざす。鉄球でも食らったかのような衝撃が、がつんと全身に伝わった。外野が必死に叫《さけ》んでいる。 「陛下っ、よけてください、よけてっ! 正面で受けたら危険です」 「よけいな助言はやめておけ、ギュンター。慣れないやつが腕《うで》だけで受けたら、一度で骨が折れちまう。本能的なものだろうけど、陛下の判断は正しいよ」  判断なんて理性的なものではなくて、単に長年の癖《くせ》だった。とにかく身体の正面で受けろ、かぶっておさえてでも前に落とせ、後逸《こういつ》だけは絶対にするな。要するに、自分のポジションの仕事だ。  こちらが返球するまでもなく、すぐにまた次の攻撃がくる。もう一度、上段からストレート。盾で吸収しきれずに、左腕と肘《ひじ》と肩《かた》がじんと痺《しび》れる。続いて右サイド、再び上。 「どうした、なんのために剣を持たされている!? 右手が無駄《むだ》に下がったままだぞ! それとも恐怖《きょうふ》で動かせもしないか」 「っるせーなッ」  落ち着け、焦《あせ》るな、渋谷有利。  目の前に重い鉄の武器がくる。真昼の陽光にきらめいて、銀の流線が描《えが》かれる。冷静になれ、腕が痛い、バランスを保て、重心を低く、まばたきできない、する間がない、前傾《ぜんけい》姿勢だ、攻撃に転じる隙《すき》を、剣道でいうなら面、面、胴《どう》、汗《あせ》が目に入る、面、面、胴、染みる。  ビビってんじゃねーぞ、おれ。けど、やっぱり顔の前にくると怖いんです、振りかぶって上段から、きみはもう……。  きみはもうプロの球も捕《と》れるようになった。それでもまだジュニアの選手が怖いのか?  あの日の風。  まだ屋根がなかった。  もう怖くない。 「お前のスピードじゃ怖くないねっ」 「なんだと!?」  思い切って跳《は》ね上げた盾を手放し、相手の体勢を崩《くず》させる。その隙に剣と柄《つか》を両手で握り、自分を守るよう前に振り出す。 「ああっご自分で盾を捨てられるなんて。ああもう見ていられませんよコンラート。たおるだかオマルだかを、早く投げてさしあげて」 「まだだ。陛下はヴォルフラムのリズムを読んでるぞ。基礎のできた模範的《もはんてき》な攻撃だからこそ、次にくるコースが予測できるんだ。ほら、かろうじてだが剣で止めている。それに俺、タオルなんか持ってきてないし」 「ええっ」  コンラッドの指摘《してき》したとおり、おれには次に狙われる場所が読めてきていた。けれどそれは基礎とか模範とかのせいではなくて、敵の性格が判《わか》ったからだった。  食事の順番が決まってた。それも一度の狂《くる》いもなく。そしてさっきからずっと同じリズム。緩急《かんきゅう》つけないピッチングは、やがては読まれて長打を食らう。同じことだ。  顔の前で金属がぶつかり合い、火花が散るのに歯を食いしばる。グリップエンドに乗せた小指が、最後の振動《しんどう》で軽く痺《しび》れた。 「……もしおれが監督《かんとく》だったら、お前は絶対ファーム落ちだなっ、だって投げてくるタイミングがっ、最初からずっと同じだぜッ!? そんな芸のないピッチャーは……っ」  サイドから立て直す間には、他よりコンマ数秒余分にかかるはず。おれは右足と同時に肩を引き、スクエアに構えて剣を四十五度に倒した。  テイクバック、相手の踏《ふ》み出しと同時に左足をシンクロさせ、バットに、いや刃と刃が当たる瞬間《しゅんかん》に親指に力を加えて、決して腰《こし》を引かない、けれど打ち急いで前のめりにもならない、身体《からだ》の軸《じく》を固定したままで。 「……っ!」  最後まで振《ふ》り抜《ぬ》く!  キーンと、聞き慣れた金属バットの音がした。両腕が付根まで激しく痛んだ。次第に衝撃は震《ふる》えとなって、肋骨《ろっこつ》や腰骨までモールス信号みたいに広がった。  ヴォルフラムの巨大《きょだい》な武器が飛ばされ、くぐもった擬音《ぎおん》で地面に刺《さ》さった。 「……ひゃっほーぅ」  気分的には逆転サヨナラ満塁《まんるい》アーチだが、距離《きょり》からすればセカンドフライだ。いずれにしろ敵はもう丸腰だ、ここで下手《したて》に出て折衷案《せっちゅうあん》を探れば、なんとか停戦に持ち込める。 「……おれ的にはもうクタクタで勘弁《かんべん》してって感じなんだけど、もしお前さえよかったら、今日のところは引き分けってことで……うっわ!」  おれは仰天《ぎょうてん》して飛びすさる。蒼白《そうはく》な顔のヴォルフラムの右手は、バスケットボールでも掴《つか》むような形で、わずかに中指だけ外向きにしながら、オレンジの火球を乗せていた。 「ヴォルフラム!」  ギュンターが叫《さけ》ぶ。 「陛下はまだ魔術《まじゅつ》について学ばれていないのです! 自分が負けたからといって、得意の炎術《えんじゅつ》を持ち出すのは」 「ぼくは負けたわけじゃないッ」 「だっ、だから引き分けでいいって、おれ言ったじゃん」 「引き分けもなしだ。どちらかが戦えなくなるまで続ける」  美しい顔を憎悪《ぞうお》に歪《ゆが》ませて、魔族のプリンスは右手を突きだす。  ギュンターは何か呪文《じゅもん》めいたことを叫ぶが、彼等の頭上で小さな爆発《ばくはつ》が起こっただけだった。常人のおれには想像できない方法で、せめぎあっているらしい。 「グウェンダル! なぜ邪魔《じゃま》をするのです!? ヴォルフをとめないと陛下の身が」 「邪魔をしているのはお前だろう。真偽《しんぎ》を見定めるいい機会だ。あれが本物の魔王だというのなら、ヴォルフラムごときに倒されはしないはず」 「しかし陛下はまだ要素との盟約も……」 「魔力は」  言葉を奪《うば》ってグウェンダルは、壁《かべ》から離れて向き直る。いつもどおりの不機嫌《ふきげん》な美貌《びぼう》。 「魔力は魂《たましい》の資質だ。学ぼうが焦《こ》がれようが得られるものではない。あれが真の魔王だというのなら、盟約も知識も追い付かなくても、あらゆる要素が従いたがるはずだろう? その高貴な魂に跪《ひざまず》いてな」  外野の会話に耳を傾《かたむ》けられたのはここまでだった。そんな余裕《よゆう》はない。おれが本物の魔王のはずが、いやもし万一そうだったとしても、炎《ほのお》のドッジボールに勝てる自信は……。 「炎に属する全《すべ》ての粒子《りゅうし》よ、創主を屠《ほふ》った魔族に従え!」  その台詞《せりふ》を覚えておくと、後々いいことがあるだろうか。それどころじゃない。おれは駆《か》け出した。逃《に》げろ、逃げちまえ! 反撃のチャンスはきっとある、だから今はこのファイアーボールが届きそうにない所まで、一歩でも遠くへ逃げるんだよ! 「我が意志をよみ、そして従え!」  つんのめって転んだのは偶然《ぐうぜん》だった。だが大きさを増した火球は、頭を掠《かす》めて壁に当たる。髪《かみ》が焦《こ》げる独特のいやな匂《にお》いが、自分の嗅覚《きゅうかく》を刺激《しげき》した。  殺される。こんなものをヒットされたら確実に殺される!  どうして? なんでおれが? そりゃあENDマーク出るまで付き合うって決めたけど、だからってなんでだまし討ちみたいに、非科学的な炎にやられなきゃなんないの!?  コンラッドは自分の剣を抜き、グウェンダルに銀色の切っ先を向けた。 「グウェン、障壁《しょうへき》を解《と》け。でなければお前を斬《き》ってでも、ヴォルフラムをとめに行くことになる」 「私を斬ってでも? どこまで本気なんだ、コンラート」 「全て本気だ」  ヴォルフラムも同じく本気だったらしい。今度は炎の球ではなく、彼の僅《わず》かに曲がった中指から、空気の揺《ゆ》らぎが生まれてきた。爪《つめ》の先に血のような赤が灯《とも》り、突然《とつぜん》ふくらんだその色が狼《おおかみ》ほどの大きさの獣《けもの》になる。炎のままで。 「なんだよそれっ」  酷薄《こくはく》な笑みを浮かべるヴォルフラムから、獰猛《どうもう》な獣が放たれた。  なんだよそれ、だったら相撲《すもう》と剣での勝利はなんだったの!? 最後に逆転チャレンジありだってんなら、これまでの苦労はどうなるの!?  自分が必死に走った距離を、獣が三歩でかせぐさまを、おれは突っ立ってただ見ていた。動けなかった。動こうにもどこに逃げても、あの四本の足で追い付かれるだろうから。恐怖というより「そりゃないよ」という思いで、ぼんやり口を開けていた。  凶器《きょうき》の前肢《ぜんし》が襲《おそ》いかかる瞬間、おれはふっと首を沈《しず》めた。そいつはすれすれのところで獲物《えもの》を飛び越し、勢い余って止まれずに進む。本来なら壁のある場所へ。  運悪くそこには回廊《かいろう》があり、小走りで横切る人がいる。おれは首を痛いほどひねって、彼女に危険を伝えようと叫んだ。見たことがある、あの娘《こ》は確か、昨日おれの着替《きが》えを持って。 「危ないッ!」 「……ちッ」  全てが遅《おそ》かった。おれもギュンターもコンラッドも。  燃え続ける獣は真っすぐに突っ込み、少女は悲鳴もなく弾《はじ》き飛ばされた。同時に狼も消える。誤った標的を打ち倒して。 「……これが」  近くにいた哨兵《しょうへい》が慌てて駆け寄る。右胸の肋骨《ろっこつ》の一箇所が、折れたみたいに鋭《するど》く痛む。息をするのが苦しくなって、鼓動が重低音でがなりたてた。 「これがお前等の勝負なのかッ!?」  腰とも腹ともつかない身体の奥《おく》から、熱い感覚が広がりだした。神経の末端《まったん》まで走り抜けるそれは、脳の後ろで警報を鳴らす。 「関係ない女の子を巻き添《ぞ》えにする、これが……っ」  目の前で純白の煙《けむり》が弾《はじ》けた。  生きているのかどうか判らなくなる。  耳の奥で、誰かが低く囁《ささや》く。  やっと……。  やっと、なに?  それっきり、意識が。 [#改ページ]           7  晴天がにわかにかき曇《くも》り、中庭の上空だけに黒雲が広がった。石畳《いしだたみ》に叩《たた》きつけられる息もできない豪雨《ごうう》。辛《かろ》うじて開いた眼《め》に映ったのは、ヴォルフラムを見据《みす》えるユーリだった。 「……陛下?」  ギュンターがおずおずと声をかけるが、そちらを振り向く素振《そぶ》りもない。  口調どころか、声まで別人のようだ。 「己れの敗北を受け入れず、規則を無視した暴走|行為《こうい》。果てには罪もない少女を巻き込み、それでも貪欲《どんよく》に勝利を欲する」 「な、なにを役者口調で言っているんだ?」 「それが真の決闘《けっとう》だというのか!? だとしたらそのような輩《やから》を、野放しにしておくわけにはゆかぬ! 血を流すことが目的ではないが、やむをえぬ、おぬしを斬《き》るッ」 「なに!?」  斬るとか言っておきながら、ユーリの武器は剣ではなかった。 「成敗《せいばい》ッ!」  ヴォルフラムが使った火獣のように、彼の指先にも術が現われる。叩きつける雨と同じウォーターブルーの、二|匹《ひき》の牙《きば》のある蛇《へび》だった。 「なんというか、こう、あまり王らしくない術形態だな」 「そんなことより、陛下はいつ水の要素と盟約を結ばれたんです? それに命文の一言も口にせず、粒子を操るのは至難の業。なにひとつお教えしていないのに、どうして陛下はそのようなことを……」  それぞれ勝手な感想を述べるユーリ派の二人に聞こえないように、グウェンダルは小さく呟《つぶや》いた。 「なるほど、魂は本物、ということか」  半|透明《とうめい》なきらめく蛇の横腹には、うっすらと漢字で『正義』と書かれている。場違《ばちが》いだ。宙をくねった二匹は過たず、獲物の魔族に絡《から》みつく。ヴォルフラムはらしくない悲鳴を上げ、そいつらを振りほどこうと抵抗《ていこう》した。指先では彼の命によって幾度《いくど》も炎が生まれるのだが、そのたびに豪雨が叩き消す。これは炎の術者よりも水の術者に分がある証拠《しょうこ》だ。主人の格と実力によって、具現した要素の勝敗は決まる。 「はなせっ、このっ! いったいどうして、こんなに急に……。貴様、本当は何者だ!?」 「何者だと? 余《よ》の顔を見忘れたか」  すっかり時代劇モードだ。 「罪もない娘の命を奪《うば》ったおぬしの身勝手さ、断じて許すわけにはゆかぬ」 「ぐ……っ」  いよいよ蛇(正義一号二号)がヴォルフラムを成敗しようと締《し》めつけたとき、兵の一人が嬉《うれ》しげに叫んだ。 「おーい! 気がついたぞ、命に別状はないようだ」  少女が男の腕の中で、意識を取り戻して目を開いた。小さくうめいて顔に手をやる。 「……あたし……どうして……」  ユーリもヴォルフラムもそれを見た。ヴォルフラム自身は弁解する気もなかった。殺すなら殺せ、こんなちょっと外見がいいだけのガキに首をとられるのは屈辱的《くつじょくてき》だったが、跪いて命乞いをするよりは、武人らしく死を迎《むか》えるほうがずっと潔い。  だが首にまで絡みついていた水蛇は、急激な蒸発によって姿を消した。力が抜けて、座り込む。爛々《らんらん》とした眼の輝《かがや》きまでもが常人でないユーリが、ヴォルフラムを指差して言い放った。 「ヴォルフラムとやら、以後よくよく改心いたせ! お上《かみ》にも情けはある」 「な……ナサケ?」  自称・お上は、派手な飛沫《しぶき》をあげて、泥水《どろみず》の中にぶったおれた。 [#改ページ]           8  誰《だれ》かが身体《からだ》を洗ってくれた。誰かが部屋《へや》に運んでくれた。誰かがベッドに寝《ね》かせてくれた。誰かが毛布をかけてくれた。  そして誰かが、夢《ゆめ》の中で囁《ささや》いた。  野球? 野球をやるならキャッチャーをやれ、サッカーだったらえーとゲームメーカー? とにかくチームに指示を出すポジションをやれ。監督《かんとく》だったら最高だ。  小学生は監督できないよ。  そうだな、そこが残念なとこだ。よーしユーリ、キャッチャーをやれ。お前がサインをださないと、ゲームはずっと始まらないぞ。 「……おれがサインをださないと……ゲームはずっと……」 「お気がつかれましたか」  ぼんやりと白い天井《てんじょう》が見える。覗《のぞ》き込んでくる超《ちょう》美形の灰色の髪《かみ》も、紫《むらさき》の瞳《ひとみ》が潤《うる》みかけて、泣きそうな微笑《びしょう》で唇《くちびる》を噛《か》んでいる。 「……おれ……死んだんだっけ」 「縁起《えんぎ》でもないことをおっしゃらないでください、一時は陛下のお身体を案じて、国中|皆《みな》で祈《いの》りましたのに」 「大袈裟《おおげさ》だなぁ」  ギュンターはとんでもないという感じに肩《かた》をすくめた。 「大袈裟ではありません、三日も眠《ねむ》ってらしたのですよ」 「三日も!?」 「そうです。けれど今朝からは通常の睡眠《すいみん》になり、疲労《ひろう》が回復すれば目が覚めるだろうと医師が申しておりました。お身体の方には、何ら異常はございません」 「だろうと思った、いやに腹が減ってるから」  それにしてもあんな炎《ほのお》の化物に倒《たお》されたにしては、目立った傷も火傷《やけど》もない。よっぽど頑丈《がんじょう》にできているのか、それとも誰かがタオルを投げてくれたのか。 「本当に、陛下が水の術を使いこなされたときには、私《わたくし》ばかりでなくグウェンもコンラートも仰天《ぎょうてん》いたしました。いつのまに水の要素と盟約を結ばれたのですか? それも具現形態も見事な美しい蛇《へび》でした。一体いつ……」 「水の術? 要素、盟約? 何の話だよ何の。ああそうだ、あの女の子は無事!? あの、燃える狼に突《つ》っ込まれちゃった彼女」 「あ、ええ、幸い命に別状はありませんでした。もっともヴォルフラムの炎が突っ込む直前に、グウェンダルが彼女を障壁《しょうへき》で覆《おお》ったので、実際には軽い波動というか衝撃《しょうげき》で弾《はじ》き飛ばされただけなのです」  グウェンダルが? ああ見えて結構いい人なのだろうか。 「にしても。そか、あーよーかったぁ、おれ気がちっちぇーからさ、女の子が大火傷したらどうしよう、もしかしておれのせいか、おれの責任問題なのかっ!? って思ったら、かーっと頭に血が昇っちゃって……あれ、おれどうしてやられちゃったんだろ」 「やられ……いいえ、いいえ陛下、陛下は決してヤラレてなど……」 「いーんだよ慰《なぐさ》めてくれなくともぉー。もともと勝ち目のない勝負だったじゃん。きっとめちゃめちゃ怖《こわ》かったんだろうなー、記憶《きおく》がなくなるくらいだもん」  おれは筋肉をほぐそうと、首をコキコキ鳴らしながら、コンラッドの聞き慣れた「こうなると思った」を待った。けどその言葉はかけられなかった。近くに彼はいなかったので。 「コンラッドは、どうしたの、仕事?」 「仕事、です。実は国境近くの村で紛争《ふんそう》があり、グウェンダルと共に鎮圧《ちんあつ》に出向いています。陛下のご容体が深刻でないとは判《わか》っていましたが、後ろ髪を引かれる想《おも》いだったでしょう」  後ろ髪を引かれるとか馬の骨とか、どこの国にも似たような慣用句があるもんだ。  開け放たれた扉《とびら》の向こうから、わざとらしい咳払《せきばら》いが聞こえた。  悪魔《あくま》のプリンス、ヴォルフラムが、むっとした顔で立っている。本当は魔族のプリンスなのだが、こっぴどく痛めつけられたであろうおれにとって、彼の形容詞はデビルとかサタンしか思いつかない。地獄《じごく》とかヘルとかブラッドとかつけて、B級映画のタイトルにしてやりたいほどだ。  珍《めずら》しくくすっと小さく笑って、ギュンターが声をひそめて教えてくれた。 「あのあと、ツェリ様からお咎《とが》めを受けたのですよ、ヴォルフラムは」 「へえ、あのお袋《ふくろ》さんが子供を叱《しか》ることなんてあんのか」 「あの方の怒《いか》りをかうくらいなら、私は……」 「余計なことを話すなギュンター!」  叱られたという三男が、靴音《くつおと》も高らかにベッドに寄ってくる。おれから微妙《びみょう》に視線を外していて、斜《なな》め上向きなのが不自然だ。 「それでは後は若いかた同士で」  意味深長な言葉を残して、年寄りは部屋を去ってしまう。待ってー、二人きりにしないでー、というのが本音だが、おれは俯《うつむ》いて黙《だま》り込み、相手の出方をうかがった。 「まだまだだな!」  ヴォルフラムは、ぶっきらぼうにそう切りだした。 「はあ?」 「少しはやるかとも思ったが、あの程度でみっともなく失神するようでは、お前など魔王としてまだまだだなッ」  腕組《うでぐ》みをして顎《あご》を上げたままだ。偉《えら》そうだよこいつ。 「今後ぼくに挑《いど》むときには、もっと力をつけてから来い! あんなちんけな蛇の一|匹《ぴき》二匹では、ぼくの炎術《えんじゅつ》に対抗《たいけつ》できはしないからなっ」 「だから蛇ってなに? おまえ母親に叱られて、おれに謝りにきたんじゃねーの!? なのになんだよそのえっらそーな態度! 反省の色がみえねぇじゃん」 「何故《なぜ》ぼくがお前に謝る必要がある」 「だって勝手にルール変えるし、おれが知らない魔法は使うしで……ああ……もう……」  最終的には負けたのだと思い出す。なにしろクライマックスの部分だけ、きれいさっぱり忘れちまってるのだ。多分、負けたんだろうなー、ギュンターはおれを慰《なぐさ》めようと、やられてないなんて言ってくれたけど。 「もういいや、引き分けだよ引き分け。引き分けただけでも上出来だよ」 「引き分けだと!? あれは最後まで戦いを全《まっと》うしたぼくの勝利だ! だが恥《は》じることはないぞ。どちらが勝者かはあらかじめ判っていたことだ。お前ごときに倒されたら、十貴族として申し訳が立たない」 「……」  もう口答えする元気もなくなって、おれはただただ溜息《ためいき》をついた。ヴォルフラムは機嫌《きげん》を良くしたのか、敵ながら天晴《あっぱ》れだった場面を講釈《こうしゃく》してくれる。 「しかしぼくの剣《けん》を弾き飛ばしたのは中々だった。ああいう打ち込み方は初めてだ。お前の育った国の剣術なのか?」 「どれ? ああ、あの満塁《まんるい》ホーマーか。違《ちが》うよ、あれは剣道とか武道じゃない。あれはおれがたまたま野球やってて、貰《もら》った剣のグリップがバットに似てたから同じように握って、いつもの癖《くせ》でああ振《ふ》っちゃっただけのこと」 「グリップとかバットとかは、ユーリの使い慣れた武器の名か」 「ちーがーうーよー。それは棒みたいな野球の道具で、他にグラブとかボールがあって、ピッチャーが投げた球をバッターが打って、成功したらバッターはランナーになって、そのランナーをキャッチャーが殺してェ」 「やはり生死をかけた勝負なんだな」 「殺すってそういう意味じゃねーよーぉ。もっと楽しいことなの、もっと興奮すること」 「わからないな、球を棒で打って何が楽しいんだ?」 「あああー、実際に見てもらわなきゃ野球の面白《おもしろ》さはわかんねぇって! ああでもおれ一人じゃやってみせようが……かといってこの国でのベースボール人口は、おれとコンラッドとあの子たちしか……」 「ぼくと話しているときに、コンラートのことなどどうでもいいだろう」  次兄が話題に上ったせいか、三男はちょっと気分を害した様子だ。 「あいつなら、贔屓《ひいき》の人間どもの村に行っている」 「え? 紛争だかもめごとだかって……」  国境近くの村の、子供たち。ブランドン、ハウエル、エマ、名前を聞かなかった二人。 「そう、難民に貸した我々の土地だが、この時期は早場の麦が実るからな、周囲の村に狙《ねら》われやすい。昨年は豊作だっただけに、今年はなおさら危険だろうな」  血が、急にひいてゆくような気がした。前触《まえぶ》れもなく血圧が上がって、頭がぐらついて耳鳴りがする。ベッドに座っているはずなのに、底のない深いところへ落ちてゆく感覚。 「なんだ、気になるのか? そうか、ユーリも半分は人間だったな」 「どれくらい……被害《ひがい》ってどれくらいの規模なんだろ……まさか死人が出たりとか、そんな大変なことじゃないよな……」 「死傷者のない争いなど聞いたこともない……どうしたユーリ、手洗いか?」 「ちがうよッ」  主に空腹と脱水《だっすい》でふらつく身体を、やっとのことでベッドからひきずりだして、おれは足元に靴を探した。 「行かないと。あいつらがどうなったか、確かめないと」 「行くって、はあ? 国境へか!? そんなにコンラートの顔見に行きたいのか!?」 「子供たちが心配なんだよっ」  拍子抜《ひょうしぬ》けした声になる。 「ああ、難民の心配か」 「うるせーなっ、お前にかんけーないだろッ」 「関係なくないぞ! そんな格好で行くつもりか? きちんと服を着ろ、それに髪も整えろ、寝癖《ねぐせ》がすごいぞ寝癖がっ。それに時刻をわきまえてるのか、せめて夜が明けるまで待て、それまでに何か飲んで腹に入れろ。ああ、食べすぎても困る、胃の中身をかけられてはたまらないからな」  そこまでまくしたてるとヴォルフラムは、扉の向こうに声をかけた。最初の少女とは違った女性が、食事と服をと命じられ戻《もど》ってゆく。 「よし」 「よ、よしってェ」  ブロンドの王子様は不遜《ふそん》に言った。 「行きたいのだろう? 乗せてやる」  あんなに険悪な関係だったのに、ご親切に乗せてくれるとはどういうことだ。もしや故意に落馬させて、今度こそ命を奪《うば》おうという魂胆《こんたん》なのか。果たしてこいつの相乗りさせてもらって、いいものか、それとも罠《わな》なのか。おれの数秒間の葛藤《かっとう》をよそに、ヴォルフラムはますます偉そうにしていた。 「なにしろ馬にさえ独力では乗れないという、能無し魔王陛下だからなユーリは! ぼくにとっては余分な荷物を積んで馬を走らせるなど雑作のないことだが、お前はそれさえ覚束《おぼつか》ないようだ。歴代の魔王の中で初めてだよ、お前ほどどうしようもないへなちょこ陛下は!」 「へ、へなちょこ言うなーッ」 [#改ページ]           9  村は燃えていた。  未明に十|騎《き》の兵を連れ、ギュンターには告《つ》げずに城を発《た》った。ヴォルフラムと同乗したのだが、彼の馬|捌《さば》きはワイルドで初日よりかなり辛《つら》い行程となった。とはいえおれもタンデム上級者になりつつあり、荒《あら》っぽい騎乗にもどうにか耐《た》えられた。  従う連中がいやに美形ぞろいだなと思ったら、ヴォルフの私兵ということだった。なるほど、要するに由緒《ゆいしょ》正しい純血魔族の皆《みな》さんか。  視線を感じて見上げると、骨飛族の一人が、一|匹《ぴき》かな、ちょっと遅《おく》れてついてきていた。どうして視線なんか感じたのだろう、頭蓋骨《ずがいこつ》の目の部分には穴しかないのに。 「兄上が向かわれたのだから、今頃《いまごろ》はもう全《すべ》て治めて、事後の対策にかかっているだろう。特に危険はないと思うが、なにしろお前はへなちょこだからな、目の届かない所には行くなよ」 「……へなちょこゆーな……」  だが、午後を過ぎておれたちが到着《とうちゃく》したときには、村は燃えていた。家も畑も。かなりの勢いの火の手は、曇《くも》り空《そら》さえ朱に染めていた。兵たちは森に飛び火しないようにと走り回り、村人は柵《さく》から離《はな》れてひとかたまりになっていた。  女と、子供と、老人だけだ。皆《みな》、言葉を失って立ち尽《つ》くしている。老婆《ろうば》が一人だけ泣き叫《さけ》んでいた。 「今頃はもう治まってるって、お前さっき言っただろ」 「妙《みょう》だな、そんなはずが」 「けどもう目の前に見えてんだから。ああどうしよ、すげー燃えてる、あいつら大丈夫《だいじょうぶ》だったかなー」  数十メートル先の村に向かって、とにかく早く森を抜けようとした、その時だ。 「相変わらず世間知らずだな、三男|坊《ぼう》」  部下しか居ないはずの背後から、聞き覚えのある人物の、面白がるような声がした。 「……アメフト・マッチョ!?」  三騎だけを従えてそこにいたのは、初日に会った、デンバー・ブロンコス。確か名前は…… 「アーダルベルトだっけ」 「おや、記憶力《きおくりょく》がいいな。あの時はただのバカかと思ったもんだが」 「バカそに見えて悪かったね」  対応しているのはおれだけで、振り返って見たものは、馬上で凍《こお》り付いたように動けない美形ぞろいの兵士たちだった。それどころか、おれの前に乗っているヴォルフラムも、身体を硬《かた》くしたままピクリとも動かない。  アーダルベルトはゆっくりとおれたちに近付き、ヴォルフラムの横顔を眺《なが》めながら言った。 「これだからお前は甘《あま》いってんだよ。王様を護るのに十騎ばかりでいいのか? しかも純血魔族なんかばかり集めたりするから、魔封《まふう》じの法術《ほうじゅつ》に簡単にひっかかる。こういう時は最後の一人に、術を無効化する兵を選ばねーとな」  というと、今現在、おれを除いた味方全員が、その魔封じだかいう術にかかって身動き取れなくなっているのか!? 信じられない、目的地を目の前にして。スタンドが見えているのにガス欠で止まっちまった車みたいなものだろうか。 「よう、また会ったな新魔王陛下」 「どもス」  彼が敵なのかはっきりしないので、とりあえず曖昧《あいまい》に挨拶《あいさつ》しておく。魔族と敵対してはいるようだが、おれにはどちらかといえば親切だった。初めて会ったときには、村人との間に仲裁に入ってくれたし、言葉を教えてくれもした。  それに、彼のフルネームはフォングランツ・アーダルベルト。いかにも魔族って響《ひび》きじゃないか。 「……こいつらが動けないのは、あんたのせい?」 「ああ、まあな。ちょっと修行して覚えた魔封じの法術だよ。お前さんはどうして、こいつの後ろになんか乗ってんだ? 母親と長兄にしか尻尾《しっぽ》を振らねえ三男坊を、いったいどうやって手懐《てなず》けた?」  手懐けられてるとは思えない。にしても、この男はコンラッドとも知り合いだったし、今の台詞《せりふ》から察するに、ヴォルフラムやグウェンダルとも近しいようだ。なのにどうして敵対してるんだろう。おれは疑問を口にした。 「あんたホントは魔族なんだろ」  アーダルベルトは眉《まゆ》を上げ、額に皺《しわ》を寄せて短く答えた。 「昔はな」 「じゃ何でこいつやコンラッドと仲|悪《わり》ィの。何でわざわざ邪魔《じゃま》しに出てくんの」 「嫌《きら》いだからさ」  嫌い? 「オレは魔族が死ぬほど嫌いでね。こいつらのやり方に嫌気《いやけ》がさしてんのさ。だから薄汚《うすぎた》ねぇ魔族の手から、お前さんを救ってやろうっていうんじゃねぇか。さ、気の毒な犠牲《いけにえ》の異世界人、早いとここの場から離れようや」 「おれを……救うって……」 「いきなり違《ちが》う世界に連れてこられて、魔王になれなんて強要されてんだろ? 魔王っていやあ人間の敵だ。この世を堕落《だらく》させ破滅《はめつ》させる凶悪《きょうあく》な存在だぜ。お前みたいな若くて善良な人間を、そんな悪者に仕立て上げようってんだ。なあ、あんまりじゃないか。あまりにひどすぎると思わねーか?」  この世界に来て初めて、おれが人間だということを肯定《こうてい》してくれた。おれは平凡《へいぼん》な高校一年生で、ギュンターやコンラッドやツェリ様が期待する、魔王の魂《たましい》の持ち主なんかじゃない、ずっとそう言い続けてきたけれど、誰も信じてはくれなかった。 「こいつらには犠牲が必要だったのさ。王の座に祭り上げるためのイケニエがな。それには抵抗《ていこう》も反抗もできないような、何も知らない真っ白な少年がいい。魔族に敵対する人間達に、全ての元凶として憎《にく》ませる、そのためだけの存在として、お前を魔王にしようとしてるんだ」 「……おれは」  アーダルベルトは真横に並び、耳に二重にも三重にも響くように語りかける。 「お前は善良な人間だ。だから魔封じも効果がない。そうだろ?」 「……ああ、おれは人間だよ……魔族じゃないし……魔王でも……」 「そいつの話を聞くなッ!」  ヴォルフラムの掠《かす》れた叫《さけ》び。ぎくっとおれの肩《かた》が震《ふる》える。 「あっ、えっ、しゃ、喋《しゃべ》れんのか!?」 「そんな奴《やつ》の話を聞くんじゃないッ! その男は……っ」  おれの肩だけではなく、腰《こし》に回した腕《うで》から伝わる、彼の全身の細かい震え。前を向いたままの首筋に、汗《あせ》の粒《つぶ》がぽつぽつと浮《う》かんでいる。 「その男は、我々を裏切った……っ、お前も、仲間にっ、引き込もうとしてるッ」 「ヴォルフラム、つらいんだったら喋んなくていいって」 「いーんだぜ三男坊!」  裏切り者と呼ばれたばかりの男が、長い剣《けん》をすらりと抜き取って、切っ先を魔族のプリンスの喉元《のどもと》に向けた。 「無理して声を出さなくても。ちょっとばかし魔力が高いと、完璧《かんぺき》に術に支配されなくて損だよなぁ。もっと楽に意識を手放せれば、部下達みたいに楽しい気分になれたものを」  首を捻《ひね》って後ろを見ると、おれたちが連れていた魔族の騎兵は、酔《よ》っ払《ぱら》ってふらつくおっさんみたいに視線を宙に彷徨《さまよ》わせていた。  プライドの高いヴォルフラムのことだから、血管切れそうな状態だろう。  アーダルベルトは追い打ちをかける。 「見ろよ、お前の大嫌いな人間どもが、魔族の土地を炎《ほのお》に変えてるぜ。ヴォルフラム、お前、いつも言ってたよなあ。人間ごときに何ができる、あんな虫けらみたいな連中が、魔族に刃向《はむ》かうこと自体間違いだって」 「人間!?」  おれは馬から身を乗り出した。  あと一蹴《ひとけ》りで森を抜けるのに。木々の隙間《すきま》には、絶望と憎《にく》しみの光景が見えていた。炎の向こうからは、矢らしき影《かげ》が尾《お》を引いて飛んでくる。剣を合わせる接近戦ではないものの、誰《だれ》かが誰かを攻撃《こうげき》している。  母親が、子供を抱《かか》えて地面に伏《ふ》せた。駆《か》け寄った兵士が自分も低い姿勢をとりながら、引き絞《しぼ》った弓で応戦する。  戦争してる。  目の前で起こってることが俄《にわか》には信じられなくて、おれは繰《く》り返し呟《つぶや》いていた。 「戦争してる、戦争、ホントに、現実に」  多分この程度の規模では、紛争《ふんそう》とか別の呼び方があるのだろう。けれど、生まれて初めて目にする「現場」は、「戦場」にしか思えなかった。 「……どことどこが、じゃなくて、誰と誰が? 魔族と人間が?」  森に避難《ひなん》しようと走ってきた老人が、背中を反《そ》らせて飛び上がった。そのまま前のめりに倒《たお》れる。腰の辺りに矢が突き刺《さ》さっていた。死んではいない、離れているのに、目が合ったから。 「なんで射たれてんの、兵隊じゃないのに……どう見たってあの人は軍隊の人じゃないだろうに。あの人は村の住人だろ、村の人達は難民のはずだろ?」  人間どもが、魔族の土地を炎に変えている。  でも、あの土地で生活していたのは、人間の子供や女や老人ばかり。  声の最初が微《かす》かに震えた。驚《おどろ》きと恐怖《きょうふ》となにかの感情で。 「あんたたち、人間同士で戦ってんのか? 逃《に》げてきた子供たちがひっそり生活してる村を、人間の兵士が襲《おそ》ってんのか?」  ヴォルフラムが苦々しげに、アーダルベルトに吐《は》き捨てた。 「どうせ貴様の差金だろうっ」 「オレはちょっと助言してやっただけさ」  バランスを崩《くず》しかけておれがばたつくと、栗毛《くりげ》が軽く身動《みじろ》いだ。赤茶の尾《お》が左右に大きく振《ふ》れる。裏切り者と呼ばれた男は、惨状《さんじょう》を眺めつつおれに言う。 「信仰《しんこう》する神の教えには背くなよ、ってな。知ってるか、去年は記録的な大豊作で、連中の国は増税したんだ。今年も同じ試算で徴収《ちょうしゅう》される、そうなったら食べる分も残らねえ。選択肢《せんたくし》は二つだ、飢《う》えるか、調達するか。あいつらはオレに助言を求めた。だから教えてやったのさ。隣《となり》の村ほどの近さとはいえ、ここは憎むべき魔族の土地だ。魔族の土地に住み、魔族の土地を耕す者から奪《うば》うのなら、神もお怒《いか》りにならないだろう。隣人《りんじん》から奪うという重い罪を、問われることもないだろうと」 「だってそんな、人間だろ、どっちも同じ、人間なんだろ!?」 「違うな、同じ[#「同じ」に傍点]人間、じゃない。この村の奴らは魔族についた[#「魔族についた」に傍点]人間だ。魔族の側についた者達は、もう同じ仲間とは思われない」  おれは親指が痛むまで両手を握《にぎ》り、もどかしさに腿《もも》に叩《たた》きつける。 「わっかーんねーよっ!」 「解《わか》らなくてもいい。とにかくオレは、お前を連れ出してやりに来たんだ。お前は魔族じゃなくて人間なんだろ? 異世界から連れてこられただけの被害者《ひがいしゃ》で、髪《かみ》と目が黒いって理由だけで、魔王に仕立て上げられそうな生贄《いけにえ》なんだ。一旦《いったん》、魔族の側についちまったら、もう二度と仲間とは思われねぇぞ」  アーダルベルトは、おれに手を貸してくれようというのか、馬の左に飛び降りた。間に馬体をはさむ状態になり、少しだけ彼と距離《きょり》ができた。ヴォルフラムがこちらを向きもせずに低く囁《ささや》く。 「行け」 「え?」 「見たところ、こいつらにお前を殺す気はなさそうだ。無理に抵抗して傷でも負われたら面倒《めんどう》だ。今はアーダルベルトに従っておけ」 「ったって、お前とか皆《みんな》は……」 「構うな」  おれは言葉を呑《の》み込んだ。おれがこの場を去った後で、残った彼等はどうなるのだろう。  もう一度ヴォルフラムは短く囁く。 「早く行けユーリ!」  ゆっくりと反対側に回り込んだアーダルベルトが、おれに片手を差し出した。 「そうだよなあ、ヴォルフラム。ここでこいつを失ったところで、また新しいガキを喚《よ》び寄せりゃいいだけのことだ。魔王候補をみすみす逃がしたってことで、兄貴たちに少々責められはするだろうが、自分さえ無事なら何とでもなる。こいつを護ろうなんて暴れて生命《いのち》を失うより、ずっと賢《かしこ》い選択だ」  ヴォルフラムは僅《わず》かに唇《くちびる》をかみ、おれの腕《うで》が離れる瞬間《しゅんかん》に小さく言った。耳から聞こえたのかどうかはわからない。何かを通じて伝わった。 「……迎《むか》えにいく、絶対に」  瞬《まばた》きをするほんの一秒の間に、おれはいくつもの気持ちと情報を素早《すばや》く受け入れ、自分のとる行動を導きだした。結果がどうなっても、現在の状況《じょうきょう》ではベストの答えを。  どちらを選べば後悔《こうかい》しないのかを。 「手を貸してもらったからって、おれがあんたとタンデムすると思うなよ」  おれは勢いよく地面に降り立ち、長時間の乗馬で足腰が痛むといわんばかりに屈伸《くっしん》をしてみせた。アーダルベルトの部下の中からいい乗り手を探そうと、後方の騎馬《きば》に歩み寄る。 「あんたみたいなガタイのいいマッチョは嫌《きら》いなんだ。劣等感《れっとうかん》刺激《しげき》されるから。その上、顔でも負けてるから」 「じゃあ、どいつと相乗りしてーんだ。それとも独りで乗れるのか?」 「独りで? とんでもない!」  最後の「ない!」を発すると同時に、酔っ払った味方の足を思い切り叩いた。兵は目覚めたりしなかったが、そいつの拍車《はくしゃ》は馬の腹に当たり、葦毛《あしげ》は嘶《いなな》いて走りだす。一頭につられて他の騎馬も駆《か》け出す。たじろいで止まったままのやつも、おれに蹴《け》られてダッシュする。  たちまち周囲は蹄《ひづめ》の音で満たされ、十数頭の馬群は、敵味方乱れて森の出口へと突《つ》っ走った。ヴォルフラムの栗毛も巻き込まれていて、アーダルベルトとおれだけがとり残された。 「……なんでこんなことをする?」 「ヴォルフラムはちゃんと最後の一人を選んでたよ。その一人がおれだってことに、あんたが気付かなかっただけなんじゃないの」  ああ、惜《お》しむらくはその最後の一人となったおれに、身を守る武器を与《あた》えなかったこと。 「ユーリ、オレはお前のためを思って、魔族のもとから連れ出してやろうと言ってるんだぜ。それをわざわざぶっ潰《つぶ》すなんて、どうしてこんなことをするんだ、ええ?」 「おれは最後まで付き合うって決めたんだ。この、悪い夢《ゆめ》みたいなアトラクションにね。だけど、付き合う相手はアンタじゃない。あんたはおれのチームに要らないんだよ」  おれの構想には入っていないので、戦力外通告を申し渡《わた》す。 「おいおい、そりゃないだろ」  アーダルベルトが、巨大《きょだい》な両手剣をぶら下げて足を進める。 「お前が怖《こわ》がらないようにって、せっかく気ィ遣《つか》ってやったのによ。だったら最初っから腕の一本でも圧《へ》し折って、脅《おど》して拉致《らち》すりゃよかったよ」 「み、右投げだから右腕は勘弁《かんべん》して下さい」 「別に左腕でもかまわんよ。だが、一番手っ取り早いのは……」  どうやらおれの人選は、この男に関しては間違っていなかったようだ。 「魔王を消しちまうことだけどなッ」 「ひぃッ!」  我ながら情けない悲鳴だとは思う。だがこんなデカくて長い剣を振り回されてたのでは、剣道経験のない身としては堪《たま》らない。しかも彼の武器は恐《おそ》らく練習用ではない。恐らくっていうか確実に実戦《じっせん》用だ。 「おっ、おれを魔族の皆さんから連れ出してくれようとしたんだろ!? だったら今からだって遅《おそ》くはないじゃないかっ。なにも急に心変わりして殺さなくたって、歩いてだってこの国は抜《ぬ》けられるんだしっ」 「お前は魔族に肩入《かたい》れすると決めたんだろ。だったらオレにとっちゃ敵ってわけだ。魔族に力ある魔王を持たせたら、ますます厄介《やっかい》な存在になる!」 「だってアンタさっきからおれに言ってたじゃん! おれは普通《ふつう》の人間で、たまたま髪と目が黒いから魔王に祭り上げられてるだけだって。あっちの世界から喚《よ》ばれた被害者で、普通の人間だって言ってたのに!」  刃《やいば》の向きを変える音が、やけに大きく重く響《ひび》く。 「眞王がそんな戯《たわむ》れをするものか」 「じゃ、じゃ、じゃ、じゃあ嘘《うそ》だったのか!? おれが普通の人間だってのは、アンタの口から出任せだったのか!?」 「お前を懐柔《かいじゅう》できないもんかと、そう言い続けてきたんだが……」  アーダルベルトは照準をあわせ、必要なだけ間合いを詰《つ》めた。 「お前は本物だよ、残念ながら」  背中が乾燥《かんそう》した幹に当たる。後ろに逃げ場がないってことだ。一回二回は避《よ》けられても、その先がどうにもならないだろう。ヴォルフラムとの決闘《けっとう》とは状況が違う。殺傷能力も高そうだし、使い手のレベルにも格段の差が。  振りかざされた剣の影《かげ》が額に落ちる。おれは観念して目を瞑《つぶ》った。  速球が風を切るみたいな空気の振動《しんどう》と、枯枝《かれえだ》が折れるような乾《かわ》いた音。しゃがみこんだおれの足や腕に、ばらばらと破片が降ってくる。膝《ひざ》にかさつくボール状の物が転がりこみ、そっと片目を開けてみた。 「こっ……」  ずっとついてきていた骨飛族が、アーダルベルトの巨大な剣で「壊《こわ》れて」いた。脊髄《せきずい》にもろにクリティカルヒットを食らったのか、ほとんど全壊《ぜんかい》して散らばっている。おれの膝に頭蓋骨《ずがいこつ》が乗っていて、薄茶《うすちゃ》の翼《つばさ》は痙攣《けいれん》していた。  おれを、庇《かば》って? 「コッヒー、なんでこんな……」 「骨飛族のそんな行動は初めて見たな。主を護ろうと命懸《いのちが》けってことか。ちッ、変なもん斬《き》っちまったぜ」 「変なもんってどういうことだ!?」  心の中でコッヒーに詫《わ》びながら、彼の一部(多分、腿《もも》の辺り)を握り締《し》めて立ち上がった。もちろん、骨で剣を凌《しの》げるとは思えない。しかし、目を閉じて成仏するのを待つだけでは、彼の死を無駄《むだ》にすることになる。 「テメーなんかにコッヒーの何が解る!?」  いや、おれも深くは解ってないけど。  もはや本性を隠《かく》そうともせず、アーダルベルトは悪役めいた笑みを浮かべる。 「意志も持たない種族に同情たぁ、今度の魔王は庶民《しょみん》派だな」 「うるせー! おれは庶民派が売りだ、消費税引き下げが公約なんだよっ」  おれが骨……武器を構えると同時に、3%ではきかないくらいの心強い馬群が迫《せま》ってきた。白馬の王子さまならぬ、ウェラー卿《きょう》とフォンビーレフェルト卿の軍隊だった。  運が悪い、多勢に無勢ではどうにもならない、しかも馬もない状況では、お前を人質にとって逃《に》げることさえままならない。アーダルベルトは言い散らして、援軍《えんぐん》が来る前に掻《か》き消えた。コンラッドは部下の数人に追跡《ついせき》を命じ、行き先を突き止めるようにと指示をした。決して必要以上に近付かず、チャンスと思っても手をだすな。こちらの生命《いのち》が危険だから。 「おそらく、まかれるだろうが」  それより前におれたちは外人俳優顔負けの抱擁《ほうよう》をかわしており、何故《なぜ》かヴォルフラムに砂を投げつけられた。 「よかった、ユーリ。今度ばかりはもう駄目《だめ》かと」 「おれも、よかったよー。映画で男同士がガシッて抱《だ》きあってる気持ちがやっと理解できた」  こういう感じだったわけだ。互《たが》いの背をバンバン叩きながら、コンラッドが引きつった声で言った。 「ところで、俺《おれ》の背中に当たってる硬《かた》いものは何ですか」 「ああこれ? ホネ」 「骨。なぁんだそうですか、骨ですか。で、陛下はそれを何に使うつもりだったんです?」 「えーと、棍棒《こんぼう》がわりに」  彼はがばっと身体《からだ》を離した。眉間《みけん》にしわが寄っている。 「まさか、アーダルベルト相手に一戦やらかすつもりだったんじゃ……」 「だってみすみす殺されるのヤだもん」 「あーもうっ、陛下、ヴォルフラムの時とは話が違《ちが》うんですよ!? あいつとヴォルフじゃ格が違うってのに」 「悪かったなッ、格が違って!」  栗毛《くりげ》から降りた三男が、不愉快《ふゆかい》そうに下草を蹴《け》った。魔封《まふう》じとやらの効果は切れたのだろうが、顔色がいいとはお世辞にもいえない。 「大丈夫《だいじょうぶ》なのか、ヴォルフラム」 「ふん、お前に心配される筋合いはない」 「だったら心配しないけどさー」 「こいつは自業自得です。勝手に陛下をこんな所まで」  若い方の兄に咎《とが》められても、悪怖《わるび》れた様子など微塵《みじん》もない。おれは自分が頼《たの》んだことにして、さっさと話題を切り替《か》えた。 「それより、なんでこんなに早く来てくれたんだ」 「俺としては遅すぎるくらいだよ。村を越《こ》えた国境近くで交戦中だったんだけど、俺達の隊に従ってた骨飛族が、仲間の窮地《きゅうち》を聞きつけて。言ったでしょう、彼等には独特の意思伝達能力があって、少々離れた場所からでも、精神だけで会話ができるんです。で、その場をグウェンに任せて、ここまで駆け戻《もど》る途中《とちゅう》でヴォルフラム達と……」 「そうだ! どうしよう、コッヒーだよ!」  おれは木の根元に散らばる残骸《ざんがい》を掻き集め、中央に頭蓋骨をそーっと置いた。 「可哀相《かわいそう》にコッヒー……おれなんかのために自分の命を……ホントにごめんな、きみにだって妻も子もあったろうにさぁ」  とはいえ性別、依然《いぜん》として不明。せめて簡単な墓をつくり、命日と彼岸《ひがん》には花でも手向《たむ》けようと、悪いけど彼自身の大腿骨《だいたいこつ》で、草の間を掘《ほ》り始める。 「ああちょっと陛下、埋《う》めちゃ駄目だ」 「なにいってんだよぅ、コッヒーを野晒《のざら》しにはしておけないよー」 「責任もって回収させますから。埋めちゃったらもう二度と飛べないじゃないですか」 「は?」 「だから、骨飛族はきちんと組み立て直せば、元どおり飛べるようになりますから」 「し、死んでないの?」 「彼等の生態に関しては、実に不思議な部分が多くて」 「ほんとにー? ほんとにそんなプラモみたいな仕組みなのー? じゃあ変なとこに変なホネ組み入れちゃって、新しい生物にしないでくれよー?」 「大丈夫、専門の技術者がいるんです」  プロのモデラーか。けど良かった。生きててくれて何よりだ。  ようやく森を抜けて村に戻ると、逃げ遅《おく》れた敵兵の対処にあたるコンラッドに、くれぐれも注意するようにと言い含《ふく》められた。 「終息に近付いてきてはいますが、まだ残党の抗戦もある。いいですか、決して俺の目の届かないところには行かないでください。流れ矢に当たって命を落とす者もいるんだから」 「な、流れ矢かぁ」  そういえばさっき、流れ矢っぽいものに射られた老人はどうなったのだろう。コンラッドの視界から外れないように気をつけながら、おれは負傷者が集められている一角に向かった。  火の粉を避《さ》けて張られた布は、体育祭の救護テントを思わせる。だが屋根の下はそんな閑《のど》かな雰囲気《ふんいき》ではなく、二十人以上の怪我人《けがにん》が、草の上に直接、横たわっていた。おれが茫然《ぼうぜん》と突《つ》っ立っている間にも、次々と人が運ばれてくる。  魔族も人間も村人もない。叫んだり呻《うめ》いたり泣いたりしている。  青白い肌《はだ》の女の子が、一人で忙《いそが》しく動き回っていた。癒《いや》しの手の一族、とギュンターが呼んでいた。彼女は、つまり、衛生兵なのだろうか。この国では男女の別なく戦地に赴《おもむ》くらしい。そういう点は、妙《みょう》に進歩的だ。 「何かおれに手伝えることがあったら……」  女の子は顔を上げ、おれを見て仰天《ぎょうてん》した。外見はまだヴォルフラムくらいだが、きっとおれより年上だろう。 「いいえ、陛下! とんでもない、ここはわたし一人で大丈夫です」 「でもどんどん運ばれてくるよ」 「あのっ、あの、申し訳ありません、陛下にこんな見苦しいところを。どうぞ、陛下、お戻りになって、兵達の指揮をお願いいたします」  おれは首を横に振り、彼女の領分に足を踏み入れた。 「見苦しいことなんて全然ないよ……みんな怪我して苦しんでるんだから、それにおれは軍隊を指揮できるタイプじゃないし」  新たに一人、運ばれてきたことで、衛生兵の気持ちも変わったようだ。救急キットらしき箱を手渡《てわた》して、入り口近くの男を指差した。 「本当に申し訳ございませんが、それではあちらの軽傷の患者《かんじゃ》から、この液で消毒をお願いできますか。必ず手袋《てぶくろ》をなさってください。布と鋏《はさみ》はこちらにございますので。あの、陛下、負傷兵の治療《ちりょう》のご経験は……」 「ないけど、多分、気を失ったりはしないと思う」  死球傷とかスライディング傷とかスパイク傷とかを見てきているので。女性兵は、安心したという表情で、重傷患者を診《み》てやりに行った。おれは太股《ふともも》を斬られた男に、大胆《だいたん》に消毒液をふりかけた。スパイクで切れた傷なんてものじゃない、肉が開いてピンク色だ。 「運が悪いな、鎧《よろい》のないとこやられちゃうなんて。けど安心しろ、傷は浅いぞ。その証拠《しょうこ》に骨も筋肉も見えてない」  手が震《ふる》えた。 「そんな、陛下、もったいない……」 「もったいないだって? 薬品をケチっちゃいけないよ。ねえちょっと、これ傷薬ー?」  少女がおれに頷《うなず》いた。キットの中の黄色いジェルを、大きめのガーゼに塗《ぬ》りたくり、保健体育だったかボーイスカウトだったかで習った通りに、幅《はば》広い包帯で腿《もも》を覆《おお》う。男はしきりにもったいながっていた。次ッ、と自分に気合いを入れて、裂傷《れっしょう》や火傷《やけど》の具合を調べる。  比較的元気な者ばかりだったが、部活中の擦《す》り傷や打ち身くらいしか負ったことがないおれにとっては、それでもここは「野戦病院」だった。何人かの軽傷患者を処置した後、うつぶせの男の番になった。  背中を斜《なな》めに斬られているが、防刃《ぼうじん》服のおかげで、出血の割には深くない。辻斬《つじぎ》りに襲《おそ》われた町人みたいだ。汚《よご》れた衿《えり》に明るい茶色の髪がかかっている。革紐《かわひも》の先についた銀のコインが首の後ろに回ってきていた。幸運のネックレスなのか、どこかの国の貨幣《かへい》なのか。深く考えもせずに、ぴかぴかの一円玉を摘《つま》もうとした。 「触《さわ》るなッ」 「えっ、あっすんません! 別に取ろうとしたわけじゃなくてっ、ただちょっとキレイだったから……」 「オレに触るなっ! どうせ殺すんだろ!? 魔族が人間を生かしておくわけがねえ」 「殺……殺したりしないって……」  男は身体を起こそうとして、痛みに呻いて顔をしかめた。とても聞き取れない悪態を、おれに向かって繰《く》り返す。こちらの姿は見えていない。 「あんた、人間か」 「当然だ、畜生《ちくしょう》、お前等|魔族《まぞく》と一緒《いっしょ》にすんな! くそッ、殺すんなら早くやれ」 「殺さないよっ、なんだよあんたいい大人《おとな》のくせして、傷の消毒がそんなに恐《こわ》いのか」 「消毒だァ? 今さら善人ぶった嘘吐《うそは》くんじゃねーや、魔族が人間を助けるわけがねえ! テメーら魔族は人間を殺す、だからオレ達も魔族をぶっ殺すのさ」  おれは構わず傷に液体を流しかけた。 「殺しゃしないようるせーなぁもう! その証拠にあの村に住んでたのは人間だったじゃないか。魔族が人間を殺すってんなら、あの人たちはどうして生きてんだよ! せっかく静かに生活してたのを、壊《こわ》しにきたのはあんた達だろっ」  そうだ、こいつらは人間の村を襲い、人間に対して剣《けん》を向けた。矢を放った。  同じ人間なのに。  男はおれを見ようと首をそらし、おれは男を見下ろして立っていた。 「あそこは壊してもいいんだよ! あの村の連中は魔族に魂《たましい》を売った、あいつらからは奪《うば》ってもかまわねーんだ、あんな村ぁ焼けちまって当然なんだ! 神はオレ達をお許しになる、魔族を懲《こ》らしめるために力をお貸し下さるのさ!」  痛みと出血のせいなのか、ヒステリックに掠《かす》れた笑い声。 「神は人間をお選びになる!」 「……それ、どんな神様だよ」  額に包帯を巻いた兵士が、隣《となり》からゆらりと起き上がる。 「……陛下に……なんということを……」  待てという間もなかった。彼は剣を掴《つか》み、叫《さけ》ぶ人間の首めがけて振《ふ》り下ろす。 「だっ……」 「やめなさい!」  剣は鋭《するど》く空を切り、やわらかい地面に食い込んだ。男の首はまだ胴《どう》についている。運よく武器が折れていたからだ。衛生兵の少女は男の顎《あご》を持ち上げ、濡《ぬ》れた布を素早《すばや》く鼻に当てた。負傷した人間から力が抜けて、ぐったりと草の上に顔を押《お》しつける。 「怪我人が興奮状態にあるときは、悪いけど眠《ねむ》ってもらうことにしてるんです」  よくあるもめ事の類《たぐい》なのか、取り乱すこともなく彼女は微笑《ほほえ》む。 「御気分を害されたことでしょう、申し訳ありませんが、彼等はいつも懐疑的《かいぎてき》なのです。そこのあなた、あなたも行動を慎《つつし》みなさい。わたしの職場に運ばれてきたからには、全員が平等にわたしの患者です。傷つけあうことは許しません! あら、陛下」  彼女は、圧倒《あっとう》されているおれを覗《のぞ》き込み、喉元《のどもと》に揺《ゆ》れる石を見つけた。 「それはコンラート閣下からの捧《ささ》げ物《もの》ですか?」 「え、ああうん」 「そうですか」  何を思い出したのか小さく頷《うなず》いて、次の負傷者にとりかかる。 「よくお似合いです、とてもよく」  兵に指示を出しているコンラッドのもとへ、おれはふらつく足取りで寄っていった。所々|焦《こ》げた服の兵士が来て、井戸について報告している。 「わかった、無理に近付くな。土はなるべく広範囲《こうはんい》に、掘《ほ》った分は全て柵《さく》の中だ」  部下が略礼で走り去る。腕組《うでぐ》みをしたヴォルフラムは、さして深刻そうな様子でもない。 「兄上が戻られたら、こんな村、地の中に飲み込ませてもらえばいいんだ。そうすれば火も消える、森に被害《ひがい》は及《およ》ばない」 「では村人の家や土地はどうなる。せっかく拓《ひら》いた田畑は?」 「ふん、奴等《やつら》だって同じ人間に火を放たれたのだから、仕方がないと諦《あきら》めるだろう」  同じ人間に。  おれはわけもなく脱力《だつりょく》して、その場にへなへなとしゃがみこんだ。 「陛下」  コンラッドが膝《ひざ》を折り、背中にそっと手を置いた。 「どうしてこんなことするんだろうな……食糧《しょくりょう》が欲しいからってこんなこと。おれはヴォルフラムやグウェンダルみたいに、人間を軽蔑《けいべつ》してる魔族の誰かが、嫌《きら》いだからってこの村を襲ったのかと思ったんだ」  ヴォルフラムは心外だといわんばかりに鼻を鳴らした。 「どうしてぼくらがそんな無駄《むだ》なことをしなければならない? ここは昔から魔族の土地だ、燃えればそれだけ自然が失われる。それに森にでも火が届いてみろ、一年二年で復旧できるものじゃないんだぞ」  黒煙《こくえん》とともに燃え上がり、やがて無残に崩《くず》れ落ちる家々。ほんの数日前に訪れたときには、緑と黄金に輝《かがや》いていたのに、今は炎《ほのお》に舐《な》められる農地。森に逃げ込んだ数頭の家畜。 「どうして、人間同士でこんなこと……」  コンラッドは降りかかる火の粉を遮《さえぎ》り、おれの肩《かた》を掴《つか》んで引っ張った。 「あんたたち魔族が人間と敵対するのは、良くないことだけど解《わか》らないでもないさ。つまり、えーと、うまくいえないけど、シャチとイルカが仲が悪いとかそういう……けどそれはお互《たが》いが違うから生まれる不仲だろ、それはなんとなく解る気がするよ。なのに人間同士で争うってどういうこと?」  さっきの男のヒステリックな笑い声が、頭の中を駆《か》け回った。 「それじゃイルカ同士が傷つけ合うみたいなもんじゃねえ!? そんな無意味で残酷《ざんこく》なことやってて、神様に怒《おこ》られないってどういうことだよ!?」  魔族と人間の中間にいる彼は、感情を読み取れないほど低く言う。 「では」  兵士たちのあげる疲労《ひろう》と絶望の声、焼けた麦が灰になって舞《ま》い上がる。  落ちて草の上に積もったそれは、蹄《ひづめ》に散らされて再び踊《おど》る。  何度も繰《く》り返す。いずれ地に返るときまで。 「陛下のいらした地球では、人間同士が争うことはなかったとでも?」 「……それは……」  炎に照らされた馬上の人影が近付く。三|騎《き》ばかり従えた彼は大きな布の塊《かたまり》を引きずっていて、おれたちの前で放り出し、村人の一団に目をやった。 「これ……っ」  ボロ布に見えたのは人だった。兵士の服装の肩と右足に矢が刺《さ》さり、額からの流血で目まで真っ赤だ。もう一つの荷物は農民風の男で、青白い顔で低く呟いていた。怪我《けが》らしい怪我は見つからないが、両腕と足が奇妙《きみょう》に曲がっている。  骨が。  おれは痛みを想像してしまい、こみあげる胃液の一部を、やっとのことで飲み下した。 「あちらは直に片付く。といっても大半は国境を越えて逃走したが」  こんな大変な事態になっても、グウェンダルの表情はろくに変わらない。いつもどおりに不機嫌《ふきげん》で秀麗《しゅうれい》で、服についた他人の血以外には、戦闘《せんとう》の痕跡《こんせき》をとどめていない。末弟たちが来ていたことに対してか、微《かす》かに眉《まゆ》を上げた後、武人としては認めている方の弟と状況《じょうきょう》について話し始めた。 「この男がアーダルベルトが扇動《せんどう》したと吐《は》いた。どうりで手慣れているわけだ。兵士くずれがかなり参加している。その中に火の術者がいたらしい。炎の勢いはそのせいだ」 「一向に衰《おとろ》える気配がないよ。骨飛族の伝達が昼頃《ひるごろ》だから、術者が着くまではまだかなりある、それまで持ち堪《こた》えられるかどうか。森だけはなんとしても守らないと」 「ではそいつらは加勢ではなく、単に見物に来ただけか。それとも……」  見物人|扱《あつか》いされているのが自分だと悟《さと》り、おれは唇を噛《か》んでうつむいた。優雅《ゆうが》に降り立ったグウェンダルは、興奮気味の馬を炎から離すよう部下に命じ、背筋を伸《の》ばしてこちらを見る。 「あの時のように見事な水の魔術で、この村の猛火《もうか》を鎮《しず》めてくださるのか?」 「どういう……」  あの時の水の魔術とはなんだ? 不安が胸の奥《おく》で燻《くすぶ》っている。ギュンターも水に関することを言っていた。要素と盟約で、具現形態がどうだとか。  おれの記憶《きおく》にない時間の中で、責任をとれないことが起こってるのか? 「兄上、どうやらこいつは覚えていないようなのです」  ヴォルフラムが素っ気なく、然《さ》したることでもないように言った。 「あれは無意識下だからこそできた、幸運と呼ぶしかない奇跡《きせき》。つまりユーリは現在、剣も魔術も使いこなせないばかりか、馬にも乗れない素人《しろうと》ということで」 「奇跡、おれが? どんなすごい奇跡を、おれが起こしたって?」  コンラッドが、済まなそうな視線を向けている。あの眼差《まなざ》しには心当たりがある、生徒指導室に付き合ってくれた担任の目だ。あんたがそんな顔することはないんだよ、監督《かんとく》殴《なぐ》って部活クビになるのはおれなんだから。おれは自分のやったことを、これっぽっちも悔《く》やんでないんだから。呼び出された母親は監督と学年主任に、殴った事実を詫《わ》びてから笑って訊《き》いた。それで監督さんは、なにをやっちゃったんですか。この子を怒らせて殴られるような、ちょっとまずい出来事があったんでしょ。ゆーちゃんたら昔からそうなんですけど、子供のくせにポリシーみたいな変なもの持ってて、それに反することに出くわすと、頭に血が昇っちゃうみたいなんですよ。まあ我を忘れた状態になっても、正義の二文字だけは守るんですけど。  教師間では、この親にしてこの子ありという結論が出されたらしい。  母の言葉を信じるなら、小市民的正義感は、貫《つらぬ》き通せているはずだ。  とはいえ今、目の前で、再現しようにも思い出せないのでは……。 「どうせ役に立たないのなら、せめて邪魔《じゃま》にだけはならないでくれ」  長男は、本気で期待してはいなかったようだ。  肩を寄せ合う村人達から、年嵩《としかさ》の女が一人引っ張ってこられる。頬《ほお》にほつれた金髪《きんぱつ》と涙《なみだ》の筋をつけた女は、魔族のなかでも位が高く美しい人を前に怯《おび》えていた。兵が彼女に剣を持たせ、うずくまる敵の近くに連れてゆく。グウェンダルが言った。 「そいつらがお前の村を焼いた。殺すなり晒《さら》すなり好きにするがいい」 「なんだって!?」  またお前か、という顔で睨《にら》まれる。だが放ってはおけない。いつもどおりの、おれ。  違《ちが》う世界に飛ばされてまで、社会で習ったとおりの行動。  けど、それが自分だ。  おれは拳《こぶし》をかたくして、女と負傷兵の間に立つ。魔族の権力者に独り挑《いど》む。 「だめだろ、こいつはつまり、紛争《ふんそう》の捕虜《ほりょ》だろっ!? 捕虜の扱《あつか》いには決まりがあんだろ。さっき治療《ちりょう》してた女の子も、怪我人は平等だって言ってたぞ」 「コンラート、このうるさいのをどうにかしろ」 「おれはどうにもされないよッ」  さしもの彼《グウェンダル》も少しは苛《いら》ついたのか、額に手を当てた。 「それは一般《いっぱん》兵の話だろう、こいつらは首謀者《しゅぼうしゃ》だ」 「たとえ首謀者だって同じだ、勝手に死刑とかできるわけないじゃん! こいつにもちゃんと弁護士つけて、裁判開いて有罪か決めて……」  武器を持ち上げられもしない女にも、おれは必死の説得を試みる。 「おばさんも、こんな非常識な連中の口車に乗っちゃ駄目《だめ》だ。いくら相手が偉《えら》い人だって、従っていいことと悪いことがある。捕虜を勝手に殺しちゃいけないってことくらい、義務教育で習っただろ。中学の歴史か公民かなんかで、私刑《リンチ》になるから禁止だって」 「あたしは……そんな……」 「その女は教育など受けていない。貴族に楯突《たてつ》くと厄介《やっかい》だから、人間どもは民が余計な知恵をつけることを嫌《きら》う。教育が義務だなど以《もっ》ての外だ」 「義務教育がないィー!?」  剣と魔法の世界では、人としての権利はどうなっているのだ。  説得の効果とはいえないが、女はためらって立ち尽《つ》くすばかりで、今のところ私刑は避《さ》けられそうだ。おれは胸を撫《な》で下ろし、できることがないかと周囲を見回す。例えば町火消しの纏《まとい》を持つとか、初心にかえってバケツリレーとか。だがどこを見ても水がない。皆、土を掘ってはかけている。 「どうして水かけて消さないの?」  何の気もなくコンラッドに尋《たず》ねる。 「もう井戸に近付けないからですよ。それに術者の発した炎は、少々の水ではとても消えるものじゃない。命じられた目標を焼き尽くすから普通の火事より広がるのは遅《おそ》いけど、よほど大量にないかぎり、ただの水では太刀打《たちう》ちできない。グウェンダルは地術の練達者だから、土を盛り上げて遮断《しゃだん》しようとも考えましたが、地下への影響《えいきょう》が大きすぎて、森が犠牲《ぎせい》になりかねない……水を操れる術師を待つしか、俺たちにできることはないんです」  水を操る。それを自分がやったのだろうか。あの記憶のない、真っ白な時間に。  腰《こし》に手を当てて立っていたヴォルフラムが、わくわくした声で兄に訊《き》いた。 「我々の土地に対するこの襲撃《しゅうげき》は、宣戦布告の理由になりますか」 「……まあ、理由の一端《いったん》にはな」  せんせんふこく?  十五歳の日常生活では滅多《めった》に耳にしない言葉を聞いて、おれは四字熟語らしき響きを反芻《はんすう》した。せんせんふこく、センセンフコク、宣戦布告。  宣戦布告? 「宣戦布告だって!? こっちから戦争しかけようってのか!? 冗談《じょうだん》じゃない、どうかしてる」  無視された。 「……もう少し多角的に物事を考えろヴォルフラム。正規軍の兵士が一人として加わっていないんだ。この襲撃を布告の主たる理由にすれば、奴等《やつら》は村をひとつ切り捨てるだけで逃《のが》れられる。必要なのは確実性だ」 「では、奴等がこの国の辺境を思うままにするまで、指をくわえて見ていろというのですか」 「おまえら、聞けーッ!!」  横目だけでおれをとらえ、真面目《まじめ》に取り合おうとする様子はない。  血液が猛《もう》スピードで脳に集中しかけている。こんなときに血管を切ったら元も子もない。冷静に言葉を選ぼうとしながらも、おれの口端はひきつって、声の最後も震《ふる》えていた。 「専守防衛って知ってるか!? とにかく守るだけって意味だよ! 自分から戦ったりは絶対しないって意味だよ! 現代日本は平和主義なんだ、戦争|放棄《ほうき》してるんだ、憲法にもちゃんと書いてあるぞ!? 日本人に生まれて日本で育った、おれももちろん戦争反対だ、反対どころか大反対だッ」  コンラッドを指差し、語尾が上がった調子で言う。 「地球だって人間同士で争いがあるって、さっきおれにそう言ったよな!? あーあるさ、全然ないってわけじゃない。けどそういう時でも必ず、誰かが止めようと努力してたね! 世界の人口の大半は、平和になるよう願ってたね!」  半ば自棄《やけ》気味の叫《さけ》びになる。ヴォルフラムとどちらが癇癪《かんしゃく》持ちなのか判《わか》りゃしない。 「おまえらの話の中身はどーよ!? もっと確実に戦争できるようになるまで、わざと黙《だま》って見てるだとー!?」 「……わめくな」  グウェンダルは、頭痛を抑《おさ》えるみたいに顔を顰《しか》めた。だが、おれのあだ名はトルコ行進曲。 「話し合え、話し合いをしろってんだっ! あんたの国の国民が、うちの農地を燃やしました。どうしてくれます、どう保障してくれます? うちとしては絶対に戦争は避けたい、以後こういうことのないように、国内できちんと対処してくれますー? って、解決めざして話し合えってんだッ」 「わめくな異世界人!」 「いーや喚《わめ》くね、わめかせてもらうね! おれは二十歳《はたち》までは日本人なの、魔王《まおう》の魂《たましい》もってても、成人するまでは日本|国籍《こくせき》があんの。平和に関しちゃ日本のが、この国より優秀だと思ってるからさ、やめろって言われても言い続けるね! 戦争反対、絶対反対、一生反対、死んでも反対っ」 「では一度死ぬか!?」 「やなこった!」  やった、と思った。クールで、おれのことなど庭の小便|小僧《こぞう》くらいにしか扱おうとしなかったグウェンダルを、こちらの議論に巻き込んだのだ。もうこうなったら、おれからは退《ひ》かない。魔王みたいな容貌《ようぼう》で凄《すご》まれようとも。 「王になる気もないお前が、我が国のことに口を出すな! 私には眞魔国を護る責任があり、国益を考える義務がある。お前はニッポンだかいう場所のご大層な倫理《りんり》と生温《なまぬる》い手段で、自分の育った国を守るがいい。だが我々には我々の、魔族には魔族のやり方がある!」 「だったらおれが変えてやるよッ。魔族のやり方だっつーのを、おれが一から変えてやる!」  この空は汚《よご》れていない、この大地は毒されていない、この森は乱されていない、この世界は美しい。だけどこの世界は、何かがおかしい。 「おまえら綺麗《きれい》でかっこいーけど、性格超悪で問題あり! 人間差別とか危険な風習とか特権階級意識とか戦争好きとか。だからってもう片方の人間側が、平和主義かっていうととんでもない! 同じ人間同士なのに、魔族の土地に住んでるから襲《おそ》っていいんだって! そんなバカな話ってある!? 戦争するのに神様が力を貸してくれるって、そんな物騒《ぶっそう》な信仰《しんこう》ってあり!?」 「陛下」  陛下なんて呼ぶのは、三兄弟ではコンラッドだけだ。彼の、虚《きょ》を突《つ》かれたようなトパーズ・アイ。 「あっちも絶対間違ってるけど、だからっておれたちが乗せられちゃ駄目《だめ》だろ。自分たちだけでも正しいことをしようよ、戦争するのは間違ってるよ」  ごめんなコンラッド、マーチはクライマックスで止まれない。酸欠でアタマがくらくらしてきた。おれたちって誰《だれ》たち? おれは自分をどの集団に入れてるんだ? おれは人間だったんじゃなかったっけ。 「王様が戦争なんかダメだって言えば、国民はそれに従うんだろ?」 「陛下っ」  低く低く、おれは言った、次には怒鳴《どな》った。 「……おれが魔王になってやる……」 「ユーリ!?」 「眞魔国国王になってやらぁッ」  おれがサインをださないと、ゲームはずっと始まらない。  背後で柵《さく》に火が移った。小さな爆発《ばくはつ》を思わせる音に、女の悲鳴が被《かぶ》さった。 「なに……」  振《ふ》り返ろうとしたおれは、身体を曲げて咳《せ》き込むことになった。右の肋《あばら》への一撃が、肺の空気を詰《つ》まらせる。 「動くな!」  羽交い締《じ》めにされて無理遣《むりや》り顎《あご》を掴《つか》まれた。喉《のど》と胸に重い金属が当たり、耳のすぐ横に誰かの呼吸がある。  うずくまっていた首謀者が、女の手から武器を奪《うば》ったのだ。血で赤くなった目をギラつかせ、興奮と苦痛で荒《あら》い息を吐く。肩《かた》と足には矢が刺《さ》さったままだ。 「誰も動くなよ、動いたらこいつの喉を掻《か》っ切る」  目玉をぎりぎりまで横に向けて、男の顔を見ようとした。 「お前も無駄な抵抗《ていこう》はすんな!」 「わかりました……」  超弱気《ちょーよわき》。 「それとも偉大《いだい》なる魔王陛下様に、こんな口はきけねぇのかな。俺達みたいな下《した》っ端《ぱ》は」  誰かが舌打ちした。だれだ。  おれを引きずって移動しながら、男は半ば笑いを含《ふく》んだ声音で言った。 「あんたが本当に魔王だってんなら、こんなに簡単でいいのかよ。俺みたいな一介の兵卒が」 「……っ……」 「どっかに拉致《らち》しようとしてんのに。お前等、呪文《じゅもん》の欠片《かけら》でも吐いてみろ、俺も死ぬかもしれねぇが、こいつも確実に命を落とす! どっちが先か試そうなんて気ィ起こすなよ、こっちは二十年も兵隊だったんだ」  首に熱に似た痛みが走る。恐《おそ》らく、皮膚《ひふ》が浅く切れたのだろう。  男は魔族達から慎重《しんちょう》に離《はな》れ、馬と水と食糧を要求する。 「死にかけたふりして聞いてりゃあ、目の前のガキが魔王だっていうじゃねーか。しかも剣も術もてんで駄目らしい、そんな魔王がホントにいんのか?」 「……しょーが……ねーじゃん……」  切っ先が触《ふ》れる喉も痛むが、殴《なぐ》られた肋骨《ろっこつ》はもっと痛い。息をするたびに涙がでる。 「まあどっちにしろ、この世にふたつと生まれない双黒《そうこく》だ。たとえ王様じゃなくっても、連れてきゃ楽にひと財産|稼《かせ》げる。お前さん自分じゃ知ってんのかい、髪《かみ》や瞳《ひとみ》の黒いもんを手に入れれば不老不死の力を得るって、いくらでも金を積む連中がいるのさ」  聞いた。三日か、六日前に。自分自身の生死もコントロールできないのに、他人の妙薬《みょうやく》になるなんて、そんな不条理な人生があるか。おれはぎゅっと目をつぶった。  さっき怒鳴っちゃってごめんなさい、謝るから今は助けてください。一生|懸命《けんめい》、眼《め》で訴《うった》えたが、味方は誰一人として手を出せず、遠巻きに囲んで息を飲むばかりだ。  馬が牽《ひ》かれ、鞍袋《くらぶくろ》に少量の水が入れられる。  もしかしてこの一瞬《いっしゅん》が最初で最後のチャンスなのか? 二人同時には絶対に乗れない、まして人質に刃《やいば》を突きつけたままでは。だとしたら、今しかチャンスはないのか? 「乗れっ」  男はおれの背中に剣を回した。背後から貫《つらぬ》けるよう構えている。一人では乗れないと打ち明けるわけにもいかず、恐る恐る鐙《あぶみ》に足を掛《か》けた。  右足が鞍を越《こ》えようとした瞬間だった。  小さい黒い影《かげ》が素早《すばや》く近付き、男の足に突き立った矢を引き抜《ぬ》く。  男が蛙《かえる》みたいな悲鳴をあげる。刃が茶色い皮を傷つけ、臆病《おくびょう》な葦毛《あしげ》が高く嘶《いなな》く。前肢《ぜんし》を持ち上げて「荷物」を振り落とし、恐怖から逃れようと走りだす。 「やば……っ」  宙に身体《からだ》が浮《う》いたと思ったら、地面とは違う硬《かた》さの上に落ちた。さっきの肋骨がまた疼《うず》き、酸素が吸えずに苦しんだ。 「……っえ……ッ」  胸を掴んだ指に、暖かいものが降りかかる。  血だ。  逆光でコンラッドの背中は影にしか見えない。彼の足元にも影の塊《かたまり》があった。  男が二つに折れて倒《たお》れていた。新しく赤い血を流して。 「……死んだの?」 「さあな」  身体の下から声がして、慌《あわ》てて草の上に尻《しり》をずらす。グウェンダルが、服についた泥《どろ》と灰を払っていた。なんでこの男が、おれの下敷《したじ》きに。疑問を口にする余裕《よゆう》はない。  恐らく葦毛に弾《はじ》き飛ばされたのだろう、小さな恩人の惨《みじ》めな姿が目に入ったからだ。  もうそこには炎《ほのお》が迫《せま》ってきていた。俯《うつぶ》せに横たわる少年は、熱さにもかかわらずぴくりとも動かない。 「……おい……」  突っ立てた金髪、子供達のなかでは体格がいいほう。 「ブランドン」 「ユーリ、危険だから俺《おれ》が」  コンラッドの腕を振り切って、おれはよろよろと炎に近付いた。子供が、人間が燃えてしまう、誰かが放った悪意の炎のせいで、消せない卑怯《ひきょう》な炎のせいで。 「ブランドン!」  脇《わき》から大きな火が飛ぶのを、コンラッドがどうにか薙《な》ぎ払った。 「ブランドンっ!?」  仰向《あおむ》けた少年を膝《ひざ》に乗せる。薄《うす》く目を開き、唇《くちびる》を動かした。生きてる! 「……へいか……」 「陛下なんて呼ばなくていいんだよ」 「……でも、王さまに……なるんで……しょ……」 「ブランドン」  この村を守ってやる、お前たちを守ってやる、そう約束した、約束する。  ぽたりと、子供の頬《ほお》になにかが落ちた。 「約束する」 「なげ、る……の……も、おしえて……くれ、るんで……しょ?」 「約束する!」  叫びとシンクロするように、耳を劈《つんざ》く突然《とつぜん》の雷鳴《らいめい》。  三半規管の奥の方で、甘《あま》く優しく嬉《うれ》しげな囁《ささや》き。  我等の最後のひとしずくまで……  雨が地面を叩きだす。  滅多《めった》にないような豪雨《ごうう》だった。 [#改ページ]           10 「うううー、信じられねぇ、どうしてこーいうことになるかなあ」  広間の扉《とびら》の外側で大理石の廊下《ろうか》を睨《にら》みながら、おれは吐《は》き気《け》を堪《こら》えていた。 「仕方ないだろ、絶対魔王になってやるって自分で宣言しちゃったんだから」  コンラッドは貴族らしからぬにやにや笑いで、天まで届くかという柱に寄り掛かっている。 「だからって戴冠式《たいかんしき》……歴史の教科書の〈図8〉でしか、見たこともないような戴冠式……」 「ノミネートはきみ一人、プレゼンターは母上」 「アカデミー賞っぽく言うな」  さっきまではギュンターも一緒《いっしょ》だったのだが、例によっておれを褒《ほ》めちぎり、式の進行のために走り去った。彼が褒めたのは学ランのことと、もうひとつ、あの村の件だった。 「しかしあれだけの水術を使われて、まったく覚えていらっしゃらないとは……」  ピンポイントとしか評せない豪雨は、村の鎮火《ちんか》と同時に嘘《うそ》みたいにあがった。王都から術師の一団が到着《とうちゃく》した時には、木と麦のくすぶる煙《けむり》が昇っているだけだった。  自分自身はブランドンのことまでしか覚えていない。その先はぷっつりと真っ白だ。国土を救ったのだと大袈裟《おおげさ》に誉《ほ》められても、総《すべ》てに平凡《へいぼん》な高一には、自分の手柄《てがら》だと容易には信じられない。 「私《わたくし》の申し上げましたとおり、魔力《まりょく》は魂《たましい》の資質なのです。陛下は魔王の御魂をもたれるお方、盟約などでお手を煩《わずら》わさずとも、四大要素も喜んで従いましょう」  ギュンターは一人勝手に納得して、我が事のように吹聴《ふいちょう》して回ったようだ。コンラッドはもう少し客観的だ。 「俺は王都に来る途中《とちゅう》の、休憩《きゅうけい》した場所が怪《あや》しいと思う。あの時きみと俺は水を飲んだだろ。俺には魔力がないから判らないけど、どうもあれが何かのきっかけに思えてならない」 「どうでもいいよ、そんなこと」  だって自分では覚えてもいられない奇跡《きせき》だもん。  廊下の遠い向こうから、揺《ゆ》れる金髪《きんぱつ》が歩いてくる。青の強い紺《こん》の正装が素晴《すば》らしく似合う、魔族のプリンス・ヴォルフラムだ。男で美しいってのはこいつのことだよギュンター、溜息《ためいき》と一緒におれは呟《つぶや》く。 「なんだその質素ななりは」 「……はあ?」  陛下のために開発されたデザインだけあって、もともと着てらしたこの黒のお召物《めしもの》が最もお似合いです、そういう意味のことを言われた直後だったのに。 「肩章も装飾《そうしょく》もまったくないじゃないか。これから魔王になろうという者が、そんなみじめで貧乏《びんぼう》くさい格好でいいと思っているのか!?」  おれの顔を見ないまま、あちらへこちらへと視線が動く。いつもなら白磁のような滑《なめ》らかな頬《ほお》に、気のせいか微《かす》かに朱《しゅ》がさしている。 「財のかけらもないような姿で、兄上やぼくに恥《はじ》をかかせるな!」  言い返そうと口を開く前に、ヴォルフラムはおれの胸を掴《つか》み、輝く金色の飾《かざ》りを留めた。 「おい……」 「これはぼくが幼少の頃《ころ》に、ビーレフェルトの叔父上《おじうえ》にいただいたものだ。特に謂《いわ》れのあるものではないが、戦勲《せんくん》どころか戦場に出たこともない奴には、こんなものこそ似合いだろう。なにしろユーリは馬にさえ乗れない、史上最高のへなちょこ陛下だからな」 「へなちょこ言うなーっ」 「よし、まあまあだ」  不自然な早口でそれだけ言うと、ヴォルフラムは小走りに立ち去った。左胸につけられた贈《おく》り物は、両翼《りょうよく》を広げた金の鳥だ。コンラッドは得意げに弟の背中を見送る。 「どうやら陛下はヴォルフに気に入られちゃったようですね」 「えええええーっ!? あの高慢《こうまん》ちきナニサマだ殿下《でんか》にぃ!?」  その話題から逃《のが》れようと広間の扉を細く開き、中を窺《うかが》って再び気分が悪くなる。この国の各地方から本日のために集まってきた貴族諸侯の方々、更《さら》に各種族を代表する、ちょっとヒト型とは称しがたい方々。仲良しになった骨飛族とその親戚《しんせき》の骨地族、米国のビルの上に居るガーゴイル風、灰色の豹《ひょう》に似た四本足の人、アブラゼミの羽根と音を持つ手のひらサイズのプチマッチョ(恐らく妖精《ようせい》)、床《ゆか》を濡《ぬ》らしてデカデカと横たわる巨大なマグロ。 「ま……鮪《まぐろ》ですか」  あれがみんな国民なんだから、慣れなくてはいけないと言い聞かせる。人間は外見じゃない、いや、魔族は外見じゃない。あまりの緊張《きんちょう》で所信表明演説を忘れかけた。  魔王の野望、眞魔国日本化計画だ。 「えーと、わたくしが第二十七代魔王に就任しました暁《あかつき》には、平和主義と国民主権への移行を最終目的とし……おぇぇっ……コンラッド、もうおれ吐きそう……しかも緊張で……なんか、腹も痛《いて》ぇ……もいっぺんトイレ、トイレどこだっけ」 「またですか?」 「マタじゃなくて腹だよハラ」 「そんな時間はございません、陛下!」  白くてタイトなチャイナ服風の教育係が、我が事のような心配顔で走ってくる。 「じきに始まりますからね。よろしいですか陛下、ご説明いたしましたとおりに、中央を進まれて壇《だん》に上がられましたら、ツェツィーリエ上王陛下から冠《かんむり》を戴《いただ》き……もちろん儀式《ぎしき》を執《と》り行わなかったからといって、国民の陛下への忠誠が揺《ゆ》るぐわけではありませんが、やはり形式にはそれなりの効果が……」 「だぁーもう、だからちゃんとやるって言ってんじゃん」 「それを聞いて安心いたしました。よくぞご決心くださいました。陛下のこの頼《たの》もしいお姿を見られるだけでも……」  感極まって「爺《じい》」モードに入ってるギュンターの横を、無表情な男が通り過ぎる。そのまま扉に手を掛《か》けるグウェンダルにおれは慌《あわ》てた。 「ちょっと待て、おれより先にあんたが入っちゃってもいいの?」  容貌《ようぼう》のみならず風格や、多分、素質の面でも最も魔王に適任だろうという長兄が、相変わらず不機嫌《ふきげん》そうな唇に、作り笑いを浮《う》かべてくれた。だーいサービース。 「上王陛下に冠をお渡《わた》しする光栄な役回りを仰《おお》せつかったものでね」 「なんだそうか。おれはまた式をぶち壊《こわ》してくれるのかと思っちゃったよ。だってあんたは、おれが王様になるの大反対だもんな」 「反対? 私《わたし》が?」  背筋の凍《こお》るような笑みを見せて、一歩|戻《もど》っておれの顎《あご》に指をかける。ああ絶対的な身長差。けどこれはバスケでもバレーでもない、残念ながら野球でもないけど、背の高さは捕手《ほしゅ》にも王にも関係ないはず。 「とんでもない、反対などするものか。良い王になられることを心より願うね」 「良いって……」 「素直で、従順で、おとなしい王陛下にだ」 「それは貴方《あなた》が陛下を、思うままにしようという企《たくら》みですかっ!?」  おれのこととなると過保護なママみたいになっちゃうギュンターの後ろから、コンラッドがのんびりと関係ないことを言った。そういえば、という感じで。 「そういえばグウェン、アニシナが来てたぞ」  クールが売りだった彼が、途端《とたん》に苦虫をかみつぶしたようになった。もっともおれは生まれてこのかた、苦虫ってのを噛《か》んだことはないんだけど。小さく舌打ちして扉の向こうに消えてしまう。驚《おどろ》いた、グウェンダルにもウィークポイントがあったんだ。 「さ、陛下、よろしいですか? 緊張してらっしゃいます? 深呼吸して、吸ってー吐いて」 「自分がやってどうすんだよ」  おれはギュンターとコンラッドを従えて、教えられたとおりに広間の中央を進んだ。真っ黒い花びらが敷《し》き詰められている。縁起《えんぎ》でもない。石の階段をゆくと壇上には、輝くばかりの金の巻き毛と、艶めく素材の深紅のドレスで、ツェツィーリエ様が待ち受けていた。 「お、お美しいですツェリさま」  満面の笑み。 「ありがと、へいか。でもこんな時まであたくしの機嫌を取らなくてもいいのよ。今日の主役は、あなたなんですもの」  おれたちはちょうど、ライブ会場のアーティストみたいな位置に立っていた。ステージ正面には人工の小さな滝《たき》があり、両手を広げたくらいの幅《はば》の中央に、ソフトボールサイズの穴が空いている。水は静かに脇《わき》を落ちて、細い通路を下ってゆく。 「では陛下、滝の中央に右手を差し入れて、眞王の御意思を聞いてらして」 「は? だって眞王って、死んでるんでしょ?」 「ええ。でもあの穴は眞王|廟《びょう》に通じていて、魔王になることを許された者だけが、あそこに指を入れることができるのよ。そして眞王が新しい王と認めれば、差し入れた手をそっと握《にぎ》ってくださるの」 「ええッ」死んでるはずの人が!?  ツェリ様はおれの耳に唇を寄せ、フリだけよ、と囁《ささや》いた。 「あたくしのときも指を入れることはできたけど、誰《だれ》も握り返してなんかくれなかったわ。入れたらもったいをつけてちょっと待ってから、ゆっくりと出した手を高く上げるの。いかにも眞王の承認を得たというように。ね、陛下、難しいことはなにもないでしょう?」  背後からギュンターがせっついてくる。 「陛下、お早く」 「っていったってェ」  おれはイタリアの観光名所、真実の口みたいなものの前に立ち、右手を宙に浮《う》かせたまま、サーサーと流れる小滝の音を聞く。 「嘘《うそ》ついてたら噛まれるなんてこたないよな」 「まさか。こんなに硬《かた》い石でできているのですよ。急に動くはずがありません」  そうだよねー。怖《お》ず怖《お》ずと暗い穴に右手を近付けると、人差し指と中指が一緒《いっしょ》に入った。予想どおり中はひんやりとしていて、湿《しめ》った空気がまとわりついた。思い切って手首まで入れてしまう。 「あー良かった、やってみればなんてことない儀式だよね。あとはこれで勿体《もったい》ぶって腕《うで》を挙げりゃいいん……」  あれ?  指先が何かに突《つ》き当たった。奥《おく》の壁《かべ》、かな。 「陛下?」  ギュンターが心配そうに覗《のぞ》き込む。 「あれ……っうゎ、わぁッ、なんか、なんかがッ」  冷たい何かがおれの指を掴《つか》む。 「つっ、つ掴まれたッ、うゎ、やっ、コンラッドっ、なんかに掴まれたよッ!?」 「掴まれた!?」  そいつは恐《おそ》ろしく強い力で、おれの右手を引っ張った。待てよオイ、引っ張ろうったってこれは人工の滝なんだから、流れ落ちる水の向こうは壁だろ! 壁に激突《げきとつ》させてやっつけようってのか!? それ以前にこの引っ張ってる力は何者の……。 「どぅゎっぷ」  コーラス部員みたいな悲鳴とともに、顔から水の中に突っ込んだ。おれの服の背中や左腕を、ギュンターが必死で捉《とら》えようとする。コンラッドがおれの名前を呼んでベルトを掴む。けれどおれたちの間には水の壁があって、撓《たわ》んだ音しか届かない。  水の壁はあるのに、あるはずの石の壁はない。引き込まれたおれは酸素を求めて喘《あえ》ぎ……。喘ぎながら頭のどこかで勘付《かんづ》いていた。この世界に来るときも公衆洋式水洗トイレだったのだ。往復チケットをお求めの場合、お帰りも同じ交通手段でということだ。けど今回は、水がキレイなだけまし。ちょっとだけランクアップして、ビジネスクラスでってとこかー!?  あとはもう、勝手知ったるスターツアーズ。  や……や……や……。  なんだろ、相撲《すもう》の休場のしるし? ヤばっか連呼されたって、ヤリイカかヤンキースかヤンバルクイナかわからない。ヤンバルクイナ、とても懐《なつ》かしい。  耳元で『暴れん坊将軍のテーマ』が鳴り響《ひび》き、近鉄のチャンスなのかとびっくりして目が覚めた。何のことはない自分の青い携帯《けいたい》が、タイマーセットで鳴っている。 「渋谷っ」 「うわびっくりしたッ」  渋谷のヤだったんだな。肩《かた》を揺《ゆ》さ振《ぶ》られておれは跳《は》ね起き、名前を呼んでいたのが中二中三とクラスが一緒の眼鏡《めがね》くんだと気が付いた。誰だっけ、ああ、健、村田健。  プールで水を飲んだ時みたいに、鼻の奥がつんと染みる。濡《ぬ》れた布はごわついて硬く重く、じっとりと肌《はだ》を冷やして不快だった。ゆらぎかける視界をどうにかしようと、両目を細めて周囲を見た。薄暗《うすぐら》い公園の女子トイレ、灰色の壁、水色のドア、背中にはこの場に不釣《ふつ》り合いなブランドものの洋式便器、関係ないけどペーパーホルダー。覗き込んでくる村田健と、二、三歩|離《はな》れて制服警官。 「村田健……逃《に》げたんじゃなかったのか」 「助けてくれようとした人を残して、逃げるわけにはいかないよ」  警官が、大丈夫かと訊《き》いてきた。被害届《ひがいとど》けを出すかとか、相手の名前は知ってるかとか。  おれはぼんやりと思った。  ナイターが始まっちゃう。  それから、やわらかい照明の中庭で、誰かとしたナイトゲームを思い出した。野球のヤの字さえ知らないような、子供との約束を思い出した。夢《ゆめ》のほとんどを思い出した。 「村田……なんかおれ、すげー夢みちゃったよ」 「どんな?」  おれは黙《だま》って首を振った。長くて、とても話しきれない。 「あ、そう。じゃあ渋谷、ちょっと訊きたいんだけど……」  立ち上がろうとした拍子《ひょうし》に、服の下で肌に冷たい石が触《ふ》れる。それから学ランの胸元で、金の翼《つばさ》がきらりと訴《うった》える。おれは金色の両翼《りょうよく》を、左手でぎゅっと握り締《し》めた。  夢じゃ、ない?  ギュンター、ヴォルフラム、グウェンダル、ツェリ、ブランドン……コンラッド。 「……それ本当に、夢だったのか?」 「え?」  村田健は、曖昧《あいまい》な笑みで手を差し出す。 「だってお前、ズボンのベルト切れてるし……いや、こういうことは個人の趣味《しゅみ》の問題だからどうこう言いたくないけど……」  ふと我が身を見下ろすと、千切れたベルトと飛んだボタン、フルオープンの社会の窓。そこからのぞく、魔族の皆様《みなさま》御用達《ごようたし》のセクシー下着……。 「うひゃ」  しまった、もしかしてあれは、夢じゃなくて……。  どうやらまだ。  ゲームセットじゃないらしい。 [#改ページ]  あとがき  ごきげんですか、喬林《たかばやし》です。  私は、ごきげんどころかドッキドキです。  ついに奇跡《きせき》の文庫デビューですよ。新刊平積みコーナーをウロついては、ため息ばっかついてたこの私が。賞と名のつくものなど何一つ獲《と》ったことがないにもかかわらず、ファンタジー(超《ちょう》苦手)で、一人称《いちにんしょう》(激苦手)で、主人公以外ほとんど美形(泣くほど苦手)という小説で。かなりのメイクミラクルです。そりゃあドキドキもしますって。  この本は、ごく普通《ふつう》の高校生がちょっとしたきっかけで異世界に流されちゃうという、早い話がどこにでもあるようなファンタジーです。ただし、ギャグ。  たまたま雑談の最中に「そういえばこういう話って多いですよねー。しかも主人公は必ず伝説の勇者とか英雄《えいゆう》で、世界を救って帰ってくるんですよねー。もし主人公がピーッだったり、それで異世界でピーッしたりピーッされたりしちゃったらどうでしょうねっ。あ、Hな話じゃありませんよ」なんてことを喋《しゃべ》ってたら、同席してたT先生とA先生、GEG(ゲグ、じゃなくて、グレートエディターごとちん)に、妙《みょう》に受けがよかったんですね。  それじゃまた、って家に帰ってきてみたら、途中《とちゅう》の東上線でもうすっかり、主人公のキャラクターが出来上がっていた、と。雑談だったのに。他にネタがいくつもあったのに。今度こそシリアスもの作家になるぞって、心に決めて行ったのに……。  そういう経緯《けいい》でいざ始めてみると、なにぶん不慣れなファンタジー、名前一つとっても難しいんですよ。私としてはファンタジック(?)で大仰《おおぎょう》な名前は避《さ》けたいんだけど、だからといって剣《けん》と魔法《まほう》の世界で「ハーイ、ジョン!」ってわけにもいかないじゃないですか。いや、ジョンはジョンで素晴《すば》らしい名前だとは思うよ。ジョン・マルコビッチもジョン・キューザックもジョン万次郎も最高ですよ。けどファンタジーだからなぁ。もうちょっと女の子が感情移入しやすいネーミングを考えないと……と悩《なや》みに悩んでのんだくれた結果、こういうことに。  いろいろと考えて書き上げたにもかかわらず、現代日本では存在しないような造語があったり、いささか封建《ほうけん》的、なのに妙に平等な部分もあったり。改めて自分で読み直してみると、変な部分が多すぎです。その上、完結してるとも言いがたい。しかしそこはそれ、ギャグですから! コメディーと呼んでもらうのもおこがましい、ドタバタ小説ですから! 広い心で読み流して下さい。目指したのはサム・ライミ監督《かんとく》の「キャプテン・スーパーマーケット」!  なーんだ、ギャグにしといて助かったよー。  とはいえ挿絵《さしえ》を担当してくれている松本テマリさんは、こんなオバカな奴等《やつら》じゃなくて、きっともっと心|震《ふる》えるような美しいキャラクターを描きたかったに違《ちが》いありません。すんません松本さん、ギャグ絵なんかさせてしまって。けれどあなたの表紙に魅《み》せられて(女は海)この本を手に取った方がたくさんいると思います。その方々がみんな、お部屋《へや》まで連れてってくれたらいいなぁ。それからGEG(だから、グレートエディター……)、電話口でいつも寝惚《ねぼ》けててすんません。最初の五分は、ほとんど話が掴《つか》めない……。  そして「大変なことが!」って連絡《れんらく》するたびに、どういう事態になってるか言いあててくれた朝香さん、いや、先生とお呼びするべきですね。朝香先生、これでやっと私も同じリーグに一軍登録できましたっ。まだまだゲーム差|二桁《ふたけた》って感じで、先輩《せんぱい》の背中も見えやしませんが、敗戦処理エースとか消化試合|三冠王《さんかんおう》とかを狙《ねら》いつつ、全速力で追い掛《か》けるよ!  もっとぶっちぎれた「あとがき」になるかと予想してたら、意外とおとなしくまとまっちまいました。あーんな小説の後記が、こーんな地味でいいんかな。あとがきチェックされてるお嬢《じょう》さんは、これ見て棚《たな》に戻《もど》したりしちゃわないでしょうか……。けどもしちょっとでも気に入って(もしくは気になって)、買ってくれて読んでくれてたらありがとう。ほんとに心から、ありがとう。閉じたとき何か少しでも胸に残ったら、それを是非《ぜひ》、私に聞かせてください。  二十一世紀の「喬林 知」を創《つく》るために、あなたの言葉が必要なんです。 [#地から2字上げ]喬林 知 底本:「今日からマのつく自由業!」角川ビーンズ文庫、角川書店    平成13年10月1日初版発行    平成15年9月5日11版発行